市場を開くことは良いことか?

かなり長い間更新が滞ってしまった.個人的事情もあるが,どうやら自分の興味に引きつけてしかモノを考えられなくなっているようで,そこから外れたことについて包括的にまとめる意欲が格段に落ちてしまっているようである.

今回は以前書いた記事の続編ということで更新作業のリハビリとしたい.

で,タイトルに戻るが,もちろん古典的答えはイエスである.というのも,開かれた市場に参加することで損をするような人はそもそも参加しないからだ(これを経済学では資源配分機構の「個人合理性」と呼ぶ).

だがここではそういうことを問うているのではない.前記事にあるように,「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」ということを問題にしているのだ.

これに対する"positive analysis"としての一般均衡理論の答えはノーである.貿易理論の文脈では負の交易条件効果として知られる.また,前記事にもあるように不完備資産市場の文脈では,Hart (1975)が新たに証券が売買可能になったおかげで全員が損する例を出している.しかもCass and Citanna (1998)はむしろその方が「常態」であることを示している.

ここで本題は我田引水になるが,Chambers and Hayashi (2013, CH)は,社会的選択のアプローチから,ワルラス的な競争的市場を前提とせずに,一般の社会的選択関数の性質としてこの問題を考えている.通常,資源配分の文脈では社会的選択関数は人々の選好リストから資源配分への関数であるが,CHは人々の選好リストと取引可能な剤の集合のペアから資源配分への関数を考えている(ただし,取引不可能な財については,各人がその手持ちをそのまま消費する).

CHはこの設定において,「取引可能な財の集合が拡大したときに,拡大以前と比べて誰も損をしない」という公理を考えた(公理1).また合わせて,資源配分が所与の取引可能な財の集合のもとでは常にパレート効率的であること(公理2),資源配分は各人が取引可能な財に対する配分に対する選好のみによって定まる(公理3)を課した.

公理3はある種の情報節約性だが,例えば段階的に財の市場開放を行っていく際に,まだ市場取引の視野に入っていない財に対する選好をも考慮に入れるというようなことは,あらかじめ「ゴール」が見えていないとできないことであり,「分権的」な市場開放においてそれを行うのは非現実的な重荷である.だから,公理3は規範的要件というよりも制約条件である.

CHは,一定の正則性条件を満たす選好領域においては,市場開放の「第1段階」においては必ず誰か一人が交易の利益を独り占めにし,他のすべての人はアウタルキーでの厚生レベルにとどまらざるをえないことを示した.これは,市場開放の「第2段階」においては全員が市場開放によって第1段階と比べて得をすることを排除してはいない.だが,公理1の要請に従えば,第1段階で交易の利益を独占している人でも第2段階で損させるわけにはいかないのだから,第2段階において他の人が得られる交易の利益は,この第1段階での利益独占者が許容する範囲のものに限られる.言い換えると,交易の利益は市場開放の第1段階で誰かがそれを総取りすることにより,その「おこぼれ」として第2段階で他の人に出回るものとしてしか存在しない,ということを上の3公理は含意している.


参考文献
Christopher P. Chambers, Takashi Hayashi, Gains from trade, March 2013. pdf

Hart, O. 1975, On the optimality of equilibrium when the market structure is incomplete, Journal of Economic Theory 11, No. 3, 418-443.

Cass, D. and A. Citanna 1998, Pareto Improving Financial Innovation in Incomplete Markets, Economic Theory 11, 467-494.

限定合理性研究の2つのジレンマ

人間が通常の経済学が想定するような意味で合理的ではない、という主張は受け入れたとして、それでは社会科学における人間行動の研究はいかなるものであるべきだろうか?

異なる主観的価値の貫徹あるいは充足(最大化とは言わないまでも)を目指す異なる個人が社会においてどう折り合うかあるいはどう相克するか、という社会科学の基本(唯一とは言わぬが)テーマを離れて、合理性を全く問わずに行動あるい心理の現象的な法則性のみを追求することは、事実分析のあり方として現実的ではないし、また少なくとも社会科学をやる上では意味がないと筆者は思っている。これは経済学における共通見解でもあると思う。首尾一貫的でないながらもそれなりの価値基準を持った個人が、完全でないながらもそれなりの推論能力を以って行動を選択する限定合理性の研究が追求されているのもその故にであろう。

そうした限定合理性の研究は2つのジレンマを抱えている。よく知られたジレンマだとは思うが、おさらいしてみよう。


1:限定合理的主体は合理的主体よりも難しい問題を解いている?*1

限定合理的な主体の選択行動を「問題解決」としてモデリングしようとするとまずは、計算能力や知識に制約を設けた問題を彼が解いている、あるいは同義だが、どれだけの計算能力を投入するか・どれだけの知識を探索した上で意思決定するか「という意思決定」問題を彼が解いていると考えることになる。しかしこれは一見、彼が完全な合理的主体よりも「難しい」問題を解いているという理解を催させる。というのも、制約がない問題よりも制約がある問題の方が解くのが難しいし、「どう意思決定するかを意思決定する」ことの方が単に意思決定することよりも難しいもの映るからだ。意地の悪い言い方をすると、「限定合理性のモデルは『より複雑なサーチモデル』に話を帰着させているだけではないか」ということになり、確かにこの批判が当てはまる研究も多い。

だがここで「一見」と断ったのはもちろん、これが「解く」「決定する」という行為のさまざまに異なる諸レベルを極限まで区別して取り扱えばエスケープすることが可能なことを示唆してのことだ。Lipman (1991)は、「選ぶ方法を選ぶ方法を選ぶ方法を選ぶ方法を・・・・・」という無限後退モデルを明示的に構成した。この無限後退モデルは、無限後退であるが故に、あらゆる意思決定ルールを包摂する。そしてそこでは、あらゆる意思決定は合理的と限定合理的とによらず、tautologicallyに最適問題の解である。つまり、合理的な主体はその整合性故に「どう意思決定するかを意思決定するかをどう意思決定するかを・・・」の無限後退に一見従っていないように見えるが、実は無限後退モデルの特殊ケースなのであり、限定合理的な主体がその無限後退性ゆえに完全合理的主体よりも「難しい」問題を解いているということはないのだ。

また最近の研究として、Salant(2008) がある。彼は、計算量の明示的な定義を(コンピュータサイエンスのそれに則って)与えた上で、通常の効用最大化よりも計算量が少ないような意思決定ルールは必ずフレーミング効果(ものの選好レベルの良し悪しに関わらず一定の位置・順序にあるものが選ばれやすい、という意味で)に従うことを示した。これは上記の知見と整合的と思われる。


2:「完全な知力を持つ意志力欠如者」と「ただのアホ」

例えばセルフコントロール問題を考えよう。「明日になったらダイエットするから、今日は多く食べたい」という現在の自分と、いざ明日になったらやっぱり「『今日も』多く食べたい」という明日の自分とがいる場合、両者の利害は一致しない。

このような「複数の自己」の行動様式をモデル化する際、行動経済学はおおむね2つの極端なタイプを想定している。1つは、明日になったらダイエットできると思って今日多く食べ、明日になったらやっぱりダイエットできない人。経済学ではナイーブな意思決定と呼んでいる。より抽象的に言うなら、将来の自分を律することが出来るという間違った思い込みを抱き、それが失敗してもなお、まだそこからの将来の自分を律することができるという思い込みを抱き続ける人である。言うなれば、自己の複数性がもたらす相克について全く学ばない「ただのアホ」である。もう1つは、将来の自分が現在の自分とは異なる利害を持つことを見越した上で事前に適切な手を打つ人。経済学ではソフィスティケイティッドな意思決定と呼んでいる。直近の将来の自分が無駄遣いをしないように引き出しの困難な預金手段を選ぶのはその一例である。

ナイーブな意思決定は、たとえ現実的経験的にそういう人が多いとしても、有意義な理論的知見につながるものとは言いがたい。もちろん、それはこの行動様式を想定した分析の経験的な意義を否定するものではない。

一方のソフィスティケイティッドな意思決定だが、これは言わば「分かっちゃいるけどやめられない」状況への対処だ。つまり、やめられないことは正しく「分かっている」ことは想定されているわけだ。将来の自己を律する「意志力」は欠如しているが、それを正しく認識し、将来の自己がどう行動するかを予測して現在の選択に織り込む「知力」は持ち合わせている、と想定されているのだ。だが経験的に考えて、意志力に欠ける人間がそれとは独立に知力を持ち合わせているとは考えづらいものがある。両者はそれなりに相関していると考えるのが至当ではなかろうか?

また、容易に想像が付くが、ソフィスティケイティッドな意思決定は先の第1のジレンマに抵触する可能性がある。というのも、将来の自己を相手にゲームをプレイすることは一見、整合的な単一の自己が解く動学的最適化よりも複雑なことのように見えるからだ。第1のジレンマをエスケープするには、実は整合的な単一の自己が解く動学的最適化のほうが、複数の自己を相手にしたゲームよりもより高度であることを明示的に示せねばなるまい。

というわけで、論点はナイーブとソフィスティケイティッドの中間をどう記述するかにシフトしつつあるように思える。いくつかの試みがあることを承知はしているが自分はまだ隔靴掻痒だと思うし、これは依然としてオープンクエスチョンだと思う。



参考文献
Matsushima, Hitoshi, "Bounded Rationality in Economics: A Game Theorist's View," Japanese Economic Review, 48(3), 1997
松島斉「限定合理性の経済学:あるゲーム・セオリストの見方」理論・計量経済学会編『現代経済学の潮流1997』,東洋経済新報社,1997年6月
Lipman, Barton, "How to Decide How to Decide How to. . . : Modeling Limited Rationality," Econometrica, Volume 59 (1991), Issue 4, Pages 1105-25
Salant, Yuval “Procedural Analysis of Choice Rules with Applications to Bounded Rationality”, American Economic Review, Forthcoming

*1:私がこのジレンマを初めて知ったのは、東大の松島斉先生の日本経済学会招待講演において。

資源配分の公平性(2)

生産経済における資源配分の公平性について述べる。


能力の差異がない場合
人々の間に能力の差異がないならば、交換経済における議論をそのまま容易に拡張できる。選好の対象に「余暇」を含めるだけである。そのうえで「原始状態」においては、交換経済と同じく、人々は自分の選好以外のものには責任を持たないと考えられる。つまり、ここで許容される「格差」=異なった労働時間によって異なった消費が人々の間でなされることは、純粋により多く時間を余暇に回したいか労働に回したいかの選好によってのみ説明される範囲に限られる。

よりフォーマルに、個人iの消費と余暇の組み合わせを(x_{i},l_{i})と書き、彼の余暇へのそれを含んだ選好を\succeq_{i}と書こう。このとき、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},l_{j})\succ_{i} (x_{i},l_{i})たることを言う。つまり、iが自分の消費・余暇よりもjの消費・余暇を好む状態を指す。そして、消費と余暇の配分(x_{1},l_{1}),\cdots,(x_{n},l_{n})が無羨望であるとは、誰もが誰もを羨まないことを言う。

この意味での無羨望性と効率性は、交換経済におけるのと同じように両立する。やはり最も顕著な例は、平等配分からスタートした競争均衡配分である。つまり、まずは資源を各人平等に分け(時間はもともと各人平等に与えられているものとする)、企業の所有権(利潤配当を受け取る権利)を平等に分け、その上で市場で自由に交換させて得られた配分である。競争均衡配分がパレートの意味で効率的であることはよく知られている。また、初期保有が平等であること、時間が平等に与えられていること、企業の所有権が平等に与えられていることから、全ての人が同じ所得と予算制約に服している。したがってここでも、他人が選んだものは自分も「選べた」ものであり、にもかかわらず自分は自分のものを選んだのであるから、他人を羨む余地は存在しない。よって、平等配分からスタートした競争均衡配分は効率的かつ無羨望の意味で公平である。


とはいえ、実際問題われわれが公平性について頭を悩ましているのは、人々の間で能力に差異があるからだろう。能力に差異がある場合にも、上述の概念を拡張できるだろうか?

当然のことながら、何がリーズナブルな拡張かは、「人は自分の能力に対して責任を負うか」に依存する。能力の差異を全くの所与と取るならば、それに対する責任の比率は小さくなろうし、能力の差異が何らかの行為の帰結であるならば、それに対する責任の比率は大きくなろう。つまり、「何が選択できるもので何が選択できないものであるか」に依る。

ここでは、人が自分の能力に対して責任を負うのか否か(およびどれぐらい負うのか)について結論は出さず(というより出せない)、それぞれの考え方の含意を紹介しようと思う。


能力の差異があり、各人が自分の能力に責任を負わない場合
まずいったん、「責任を負わない」という立場から見てみよう。その場合、羨望の定義は先の場合と変わらず、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},l_{j})\succ_{i} (x_{i},l_{i})たることを言う。

しかし、この定義による無羨望性は効率性と必ずしも両立しないことが示されている。Pazner and Schmeidlerによる反例を挙げよう。2人の個人AとBがいて、1種類の財は労働のみから生産されるものとする。時間は2人とも1単位与えられているとする。Aは1単位時間のあたりの労働で1単位の財を、Bの1単位時間当たりの労働は0.1単位の財を生産するとする。2人の消費と余暇に対する選好はそれぞれ、
 u_{A}(x_{A},l_{A}) = 1.1 x_{A}+l_{A}
 u_{B}(x_{B},l_{B}) = 2 x_{B}+l_{B}
で表現されるとしよう。つまり、スキルが高くてかつ相対的により多くの余暇(少ない労働)を望むAと、スキルが著しく低くかつ相対的により多くの消費を望むBの組み合わせである。Aは相対的にあまり働きたくない方なのだが、彼のスキルの高さはそれを帳消しにして余りあるほどで、Bは相対的により多く働いてもいい方なのだが、彼のスキルの低さはそれを帳消しにして余りあるほどである。

このとき、パレート効率性に従うならば、Aは1単位時間をまるまる労働に当て(l_{A}=0)、Bは全く働かない(l_{B}=1)。*1その上で、AがBを羨まないようにするには 1.1x_{A}\geq 1.1x_{B}+1であることが必要だが、 x_{A}+x_{B}=1を考慮に入れるとこれは x_{A}>\frac{21}{22}である。一方、BがAを羨まないようにするには 2x_{B}+1\geq 2x_{A}であることが必要だが、 x_{A}+x_{B}=1を考慮に入れるとこれは x_{A}<\frac{3}{4}であり、先の条件と両立しない。

つまり、典型的には、相対的にあまり働きたくない方のAは「Bはたくさん休めて羨ましい」となり、相対的により多く働いてもいい(より多く消費したい)方のBは「Aはたくさん消費できて羨ましい」という状況が現出してしまう。


前回、交換経済においては公平性と効率性は両立し、非両立はもっぱら財の分割不可能性という技術的問題であると述べたが、ここにおける非両立はむしろ概念レベルのより深刻なものであり、公平性と効率性のどちらかおよび双方を考え直す必要がある。


能力の差異があり、各人が自分の能力に責任を負う場合
Varian (1974)は、生産経済において各個人が自分の能力に責任を負う想定のもとでの公平性の概念を考えた。ただし、ここでの「能力」の違いは、労働時間を増減させることによって埋め合わせることのできるスキルの違いに限られる。

簡単な例で説明するとこうである。仮にあなたとあなたの友人が全く同じ職種(説明しやすいので製造業としよう)についており、同じ完成品を作るのにあなたは2時間、友人は1時間かかるする。また、完成品1つにつき5千円支払われるものとする。このとき、あなたが8時間働いて4つの完成品を作り2万円得て、友人は6時間働いて6つの完成品を作り3万円得たとしよう。

能力に責任を持たない場合においては、あなたは友人が6時間労働で3万円得たこと羨むことが「正当」とされる。しかし、もしあなたが自分の能力に責任を持つならば、あなたが友人と同じ生産をするのに必要とする労働時間は2×6=12時間であり、真に比較されるべきは「6時間労働で3万円」ではなく「12時間労働で3万円」である。それを踏まえて、あなたが「12時間労働で3万円」の方が8時間で2万円よりも良いと思うならば、それは「正当」な羨望とみなされるし、そうでないならば、それは正当な羨望とはみなされない。これがVarianの提案した羨望概念である。


よりフォーマルに書くと以下のようになる。説明の簡単のため、財は一種類で労働のみから生み出され、生産技術は線形だと仮定して話を進める。つまり、個人iの1単位労働時間が生み出す財を a_{i}とし、彼のq_{i}単位労働時間が生み出す財の量はa_{i}q_{i}で与えられると考える。また、全ての個人はあらかじめ1単位の時間を与えられているとする。

このとき、消費と労働 x_{i},q_{i}を行う個人iが、消費と労働 x_{j},q_{j}を行う個人jを羨むことが「正当」かどうかを次のように考える。

個人j q_{j}単位時間を労働に振り向けたとき、生産される財はa_{j}q_{j}である。これと同じ量の生産を個人iが行うのに必要な労働時間は a_{j}q_{j}/a_{i}である。したがって、iがもしjに代わって同じ量を生産すべく働くなら、それがもたらす消費と余暇の組み合わせ (x_{j},1-q_{j})ではなく (x_{j},1-a_{j}q_{j}/a_{i})である。その上で、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},1-a_{j}q_{j}/a_{i})\succ_{i} (x_{i},1-q_{i})たることを言う。


この意味で定義された無羨望性は、再び効率性と両立する。最も顕著な例はやはり、平等配分からスタートした競争均衡配分である。つまり、まずは資源を各人平等に分け(時間はもともと各人平等に与えられているものとする)、企業の所有権も平等に分け、その上で市場で自由に交換させて得られた配分である。ただし賃金は、労働時間ではなく生産物に対して支払われる。効率性は競争均衡の性質によって引き続き保たれる。また、同一の生産物に対して同一の賃金が支払われるので、各人が自分の能力に責任を負う場合の無羨望性を満たす。


各人が自己の能力に責任を持たない想定での無羨望性は効率性と必ずしも両立せず、責任を持つ想定での無羨望性は効率性と両立する。とはいえ、ある立場に基づいて定義された無羨望性が効率性と両立するならOKで両立しないならダメだ、というのも短絡的であろう。例えば、Fleurbaey & Maniquet (1996) は、各人が自己の能力に責任を持たない想定のもとで、無羨望性よりもマイルドな公平性概念を考えて、それが効率性と両立することを示している(ただし、そのマイルドにするやり方がアドホックすぎるきらいはある)。



参考文献

Varian, H., 1974. Equity, envy and efficiency. Journal of Economic Theory 9, 63–91.

Pazner, E., and D. Schmeidler, 1974. A difficulty in the concept of equity. Review of Economic Studies 41, 441-443.

Fleurbaey, Marc & Maniquet, Francois, 1996. Fair allocation with unequal production skills: The No Envy approach to compensation, Mathematical Social Sciences, Elsevier, vol. 32(1), pages 71-93.

*1:なぜなら、Aの(限界)生産力=1単位時間労働あたりの財の生産は、ABそれぞれの(限界)代替率=1単位時間の余暇の財による主観的評価よりも高く、また、Bの(限界)生産力=1単位時間労働あたりの財の生産は、ABそれぞれの(限界)代替率=1単位時間の余暇の財による主観的評価よりも低いので

資源配分の公平性 (1)

資源配分の公平性について、書けるところまで書いてみようと思う。

意図的にそれと標榜している人でない限り、一般に経済学者は公平性について議論することがない。それは主観的には、「本分を超えたことは言わない」「特定の倫理的価値判断には関わらない」という一種の良心からなのであろうが、それは客観的には、公平性の議論が論題に上らないおかげで説得力を保持しているような言論に加担していることになりかねない。

しかし、特定の倫理的価値判断に肩入れせずとも、種々の漠然とした理念を定式化し、それらの成立可能性、それらの間の論理的関係・両立可能性・不可能性を調べ、公平性に関するフォーマルな議論の共有を助けることは可能なのであり、それはまさに経済学者の職分の一つだと言えよう。


さて、「何が公平か」というのは結局のところ、「人は何に責任を負うか」ということに帰着する。このことについて誰もが一致して受け入れられる基準が見つかっていないのはご存知の通りだ。そこでまずはとっかかりとして、各人が自分の人格(ここでは選好)にのみ責任を持ち、もって生まれた資源と能力に対しては責任を負わないような状況、一種の「原初状態」を考えよう。つまり、あらかじめ社会に賦存する資源は誰のものでもなく、誰が作り出したものでなく、誰のおかげによるものでもない、として話を進める。

まずは簡単に、m種類の財の消費を配分するモデルを考え、生産は考えない。また、財はいくらでも細かくやり取りできる分割可能なものだと想定する。このとき、資源の賦存量はベクトル \Omega=(\Omega_{1},\cdots,\Omega_{m})で表され、これをn人の間で配分する。

このとき、われわれの「公平」のセンスにかない、なおかつ不当に強すぎない基準はどんなものだろうか?


平等配分
真っ先に考えられるのは平等配分だろう。つまり、各人は一律に \frac{\Omega}{n}=(\frac{\Omega_{1}}{n},\cdots,\frac{\Omega_{m}}{n})を受け取る。しかし、人々の消費に対する好みは多様であり、それを無視して一律の配分を強いるのは賢い方法とは言えないだろう。*1


平等効用(?)
では、「外形的には平等でなくとも、人々が等しく幸せであればよい」という考え方はどうだろうか?つまり、個人iが彼の消費x_{i}から得られる効用をu_{i}(x_{i})と表記すると、効用の平等はあらゆるi,jについてu_{i}(x_{i})=u_{j}(x_{j})が成り立つことである。

察しのいい人は、この基準が一つの「信仰」があって初めて成り立つことが見て取れよう。それは、各人の効用数量的意味を持ち、個人間で比較可能である、という信仰である。

一つの選好を表現する「効用」関数はいくらでもある。*2関数u_{i}が個人iの選好を表現するなら、例えばそれを2倍して2u_{i}なる関数を考えてもこれは同じ選好を表現する。個人iの効用を与えるのにu_{i}ではなく2u_{i}を用いたならば、実際にそれで彼の幸福度が2倍になったと言えるだろうか?しかし一方で、「平等効用」の条件においては個人iの効用は2倍に算定されて2u_{i}(x_{i})=u_{j}(x_{j})となり、これは彼にとって不利に働くのだ。

つまり、平等効用の議論は、一つの選好の表現としていくらでもある関数のうち、「これぞ社会的価値判断を行う際に正しい関数」というものが一つに絞られていることを要求している。これは一つの信仰である。

特定の信仰に基づいているからといって、その(規範的)議論は一概に否定されるべきではない。信仰がなければ物事は前に進まないし、むしろ積極的に押し出されるべきものならば押し出されるべきであろう。

とはいえ、こうした信仰を持ち出すことなく公平性が議論できるならば、受け容れられる余地が広がるという点において有効である。以下に紹介する「羨望の不存在」としての公平性は、効用概念を用いず、各人の選好のみに依拠した基準である。


羨望の不存在としての公平
配分x=(x_{1},\cdots,x_{n})において、個人iが個人jを羨むとは、 x_{j}\succ_{i} x_{i}となることを言う。つまり、個人iが自分の受け取るものよりもjが受け取るものの方を好んでいることを言う。

この羨望は果たして「正当」なものであろうか?例えば、個人が自己の能力に対して責任を負うと考えられている場合においては、他人が彼の能力によって得たものに対して抱く羨望は一概に正当とはみなされない。しかし、今考えている「原初状態」においては、誰も彼自身の選好以外に対しては何に対しても責任を負わないと想定されているから、この羨望は考慮に値すべきものと言えよう。

そのうえで、配分x=(x_{1},\cdots,x_{n})において羨望が存在しないとは、誰もが誰をも羨まないことを言う。


効率と公平*3
公平性(無羨望性の意味での)と、以前取り上げた効率性とは、概念的には全く互いに独立したものである。例えば、誰か一人に資源を全て与えるのは、パレート効率的ではあっても、明らかに羨望を生む。一方、平等配分は明らかに無羨望性を満たすが、好みが多様な状況においては効率的ではない。

しばしば両者が概念レベルで背反的だと捉えられがちだが、これは明確に誤りである。効率性と公平性とが両立するか背反するかは、技術的条件の問題、特に財の分割可能性の問題である。

例えば、ここで取り上げた、財が連続的に分割可能な環境では、両立する。最も顕著な例は、平等配分からスタートした競争均衡配分、つまり、まずは資源を各人平等に分け、それらを市場で自由に交換させて得られた配分である。競争均衡配分がパレートの意味で効率的であることはよく知られている。また、初期保有が平等であることから、全ての人が同じ所得と予算制約に服している。したがって、他人が買ったものは自分も「買えた」ものであり、にもかかわらず自分は自分のものを買ったのであるから、他人を羨む余地は存在しない。よって、平等配分からスタートした競争均衡配分は効率的かつ無羨望の意味で公平である。

一方例えば、たったひとつの分割できない物体があって、これを誰に与えるか、という問題を考えよう。このとき、誰にこれを与えたとしても、他の人は彼を羨むことになる。唯一、羨望を生まない方法はこの物体をドブに捨てることであるが、これは明らかに効率的ではない。

ということは、分割不可能性の故に効率性と公平性との両立が阻まれている場合でも、「分割」の仕方を考え直すことによって(例えば時間配分で分割するなど)両立が図られうる、ことでもある。

いずれにしても、そうした技術的条件の特定を待たずして、「効率か公平か」の2択を議論するのは無意味だと言えよう。


次回のエントリーでは、生産経済における公平性の議論を紹介する予定。

参考文献
Foley, D., 1967. Resource allocation and the public sector. Yale Economic Essays 7.
Varian, H., 1974. Equity, envy and efficiency. Journal of Economic Theory 9, 63–91.

*1:もし人々が自己の選好にすら責任を持たないのであれば、外形的な平等の徹底はそれなりにリーズナブルかもしれないが。

*2:関数uが選好\succeqを表現するとは、x\succeq yxy以上に好ましい)ならばu(x)\ge u(y)で、逆も成り立つことを言う。一つの選好の表現がいくらでもあることは、任意の単調増加関数fuを変形したf\circ uも同じ選好を表現することから容易に見て取れよう。

*3:この節を書くにあたり、ny47thさんのツイートに多分にインスパイアされました。記して感謝します。

経済学における極限論法 (3)

部分均衡分析の一般均衡理論的基礎
学部の入門講義では、「他を一定」とした上でとある1つの財の市場に話を絞って、その財から生ずる「便益」が金銭単位で測られると考え、各消費者は「余剰=便益+所得の増減」を最大化すると考える。簡単に定式化すると、当該財のx単位からの消費からの便益v(x)で表記し、所得の増減をtで表記すると、余剰はv(x)+tで与えられる。特に、この財の競争的市場での購入を見るにあたっては、1単位の価格をpと表記すると、余剰はv(x)-pxとなり、最適な消費ではv^{\prime}(x)=pが成り立つ。この条件、限界便益=価格、をプロットしたものが(逆)需要曲線である。これらを用いた分析手法を、部分均衡分析という。

一方、そういう単純化を行わず、「全てが全てと相互連関している」ことを認めた分析を一般均衡分析という。もちろん、「一般」の度合いにも濃淡があるが、要素間の相互連関が大きいほどモデル分析は困難になる。計算技術の進歩により、一般均衡モデルをじかに数値的に解くことも珍しくなくなったが(特にマクロ)、特定の財の市場を分析するにあたっては上記の単純化を介して部分均衡分析を行うのが通例である。

この部分均衡理論に基づく政策分析=費用便益分析が「言説」としてどう社会的に流通しているかについては、また稿を改めて議論するつもりだし、以前のエントリーでも一部述べたが、ここではこの部分均衡分析の背後にある仮定について議論する。


冒頭の説明には(互いに関連する)2つの問題がある。それは、

  1. 便益はどうして金銭単位で測られるのか?
  2. 最適消費の条件は「限界便益=価格」で定まるとあるが、所得の絶対量はどこへ行ったのか?消費量が所得に依存していないはずはないではないか?

である。

まず1だが、部分均衡分析では当該財以外の全ての財を「それらに振り向けられる所得」として一本化した上で、「当該財をx単位消費するために、それ以外に振り向けられる所得をどれだけ犠牲にできるか?」という問に対する答えとして支払用意=便益v(x)を与える。

しかしこれはおかしい。というのも一般均衡理論的には、「所得をどれだけ犠牲にできるか?」に対する答えは「もともと所得をどれだけ持っているか」に依存していないわけがなく、ここではそれがすっぽり抜け落ちているからである。例えば、ある財に対する(見かけの)支払用意がより低いとき、一般均衡分析の枠組みでは、「そもそもその財が大して好きでないからなのか」それとも「所得それ自体が希少であるからなのか」を同定する必要があるが、部分均衡分析では後者は無視されて、自動的に前者に帰せられている。

そこで2だ。中級ミクロ以上になると、予算制約を明示的に扱って消費者行動を分析する。そこでは所得の変化が消費に与える効果を所得効果という。ということは、部分均衡分析においては消費が所得に依存しないとされているので、所得効果がゼロと仮定されていることになる。一般的に言えば、消費が所得に影響されないはずはないのだから、これを文字通り取るならば相当に強い仮定である。しかもなにより、これは「そのまんま」の仮定で、どういう状況においてそうなるのかについて説明を与えてくれるものでない。

というわけで、部分均衡理論は部分均衡理論、一般均衡理論は一般均衡理論、という具合で、両者の間には断絶がある。だから教育現場では、入門講義は部分均衡分析で行い、中級に入るとまるでそれまで教えたことなどなかったかのように一般均衡理論を教える、という状況になっている。


では、どうやったら一般均衡分析と部分均衡分析を飛躍なく接続できるだろうか?

Vives (1987)は、財の数が無数に多く、なおかつ所得が財の数と同じオーダーで大きくなるときには、各財にかかる所得効果は限りなくゼロに近くなることを示した。というのも、財の集合が膨大で1つ1つの財が全体に比べて十分小さく、なおかつ所得のプールが十分に大きいならば、1つの財の購買について我々はそれが「値段に比して」割高か割安かは考えたりするが、その出費が他の消費に費やされる所得に与える影響はほぼゼロだと考えることができるからだ。

また、我田引水になるがHayashi(2008)は、同じく財の数が無数に多く、なおかつ所得が財の数と同じオーダーで大きくなるときには、当該財の量xとそれ以外の財に振り向けられる所得の増減tに対する選好が冒頭のv(x)+tの形式へと収束することを示した。ここで、「所得」と「所得の増減」の違いに注意すべきである。というのも、極限において所得の絶対量はもはや希少ではないが、所得の相対的増減はなお希少物としての扱いを受けるからである。*1

もちろんこれは十分条件で必要条件ではないから、上のような状況でなくても所得効果が無視できる場合が可能性としてはあるわけだが、一般的に所得効果をゼロと仮定することによるエラーは、所得の絶対量が希少であるときには大きくなると言える。

ここまで読めば、部分均衡分析の適用範囲はおのずと限定されることが理解できよう。特に、まさに所得の希少性が問題である場合には、便益概念の使用には注意すべきである。


参考文献
X. Vives, Small income effects: A Marshallian theory of consumer surplus and downward sloping demand, Rev. Econ. Stud. 54 (1) (1987) 87-103.
T. Hayashi, A note on small income effects, J. Econ. Theory 139 (2008) 360-379.
T. Hayashi, Smallness of a Commodity and Partial Equilibrium Analysis, working paper. Link

*1:一方、再び我田引水だが、Hayashi (2009)は、財の特質の連続体からスタートしてそれを細分化してゆき、分割が無限小にまで小さくなるにつれ、各財(=財の特質の小集合)にかかる所得効果がゼロに収束し、なおかつそれへの支払用意が正値の関数に収束することを示した。そこでは、支払用意は言わば「密度」として与えられる。

経済学における極限論法 (2)

以前のエントリーより続く

効率市場仮説
証券市場においてシステマティックに(つまり、「たまたま」でなく)儲ける方法はあるか?というのは、誰しもが抱く考えであろう。

いわゆる効率市場仮説はこれが不可能であることを主張する。というのも、良く整備された市場においては、将来の証券価格に非確率的に予測可能な要素があるならば、それは即座に現在の証券価格に残さず織り込まれるので、将来の証券価格には現時点で予測不可能な要素しか残されていないからである(その意味で資源配分のパレート的効率性とは別の意味で情報効率的である)。

ここでは、この仮説が現実に成り立っているか否かの議論はしない。それよりも、この仮説が抱える「パラドクス」について議論しようと思う。そのパラドクスというのは、「もし価格が全てを物語っているならば、必死こいて企業情報を収集して分析する必要などないではないか?」というものである。つまり、市場が効率的ならば、それを所与とする限り人々は全く情報収集をしなくなり、よって市場は効率的たりえなくなる、というパラドクスである。*1

ここでは各トレーダーは、価格が情報を織り込むということは、自分の取引活動がたとえ少量であっても市場価格の変化に反映される、ということを知っていながら、市場価格を所与と受け取っている、つまり自分の取引活動が市場価格に影響しないと想定している。こうした市場における均衡を合理的期待均衡というが(マクロにおける合理的期待形成均衡とは異なる用語)、そういうわけでHellwig (1980)は合理的期待均衡におけるこのトレーダーの想定を「分裂症的」と形容している。

このパラドクスを解決するには、explicitな価格決定プロセス(=見えざる手ではなく見える手)に真っ向から取り込む必要がある。これに関する論文は、具体的なオークション設定をどう置くかによっていくつかあり、Wilson (1977)に始まりPesendorfer and Swinkels (1997)、 最近ではReny and Perry (2006)がある。いずれにせよ基本的アイデアは、トレーダーが無数に多くなるにつれて、オークションゲームの均衡の挙動が合理的期待均衡におけるそれに収束するというものである。

つまり、大きい市場においては、個々のトレーダーは自分の情報収集と入札行動が市場に与える影響はほぼゼロだと想定しながらも、それがmass behaviorとして市場価格に織り込まれていることも想定し、それを所与として行動する、ということが同時に矛盾なく成立するのである。結果、市場価格は人々が個別に得た情報を遺漏なく集計する。そしてこのことは、個々のトレーダーにとって情報が確率的なレベルで役に立ち、利益を得ていることとも矛盾しないのである。


次回は、部分均衡分析における所得効果不在の仮定について述べる予定。


参考文献
Hellwig, M. R. (1980): “On the Aggregation of Information in Competitive Markets,”Journal of Economic Theory, 22, 477-498.
Wilson R. (1977): “A Bidding Model of Perfect Competition,”The Review of Economic Studies, Vol. 44, 511-518.
Pesendorfer W. and J. M. Swinkels (1997): “The Loser’s Curse and Information Aggregation in Common Value Auctions,”Econometrica, 65, 1247-1281.
Reny, P. and M. Perry (2006): Toward a Strategic Foundation for Rational Expectations Equilibrium, Econometrica, 74(5), 1231-1269.

*1:このパラドクスはおなじみ金融日記でも秀逸な筆致で紹介されている。

書評 『学校選択制のデザイン ゲーム理論アプローチ』

学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ (叢書 制度を考える)

学校選択制のデザイン―ゲーム理論アプローチ (叢書 制度を考える)

NTT出版様より献本。

「ゲーム理論アプローチ」と銘打ってあるからには、ゲーム理論がrelevantでなければならない。経済学を専門としない読者にとって気になるのはおそらくそこだろう。「要は制度設計の実務に飯のタネを得たいミクロ・ゲーム理論家達が我田引水ででっち上げたプロジェクトではないのか?」と。


しかし本書は、ゲーム理論の取り扱う戦略的行動が制度設計においてまさに中心的な問題であることを示してくれる。そのことは、本書第3章でも紹介されている以下の例で明瞭に語られる。

一郎・二郎・三郎の3人の生徒、1中・2中・3中の3つの中学校があるとする(ただし定員は各校1)。各生徒の学校に対する選好順序は

一郎:2中>1中>3中
二郎:1中>2中>3中
三郎:1中>2中>3中

であり、各中学校の生徒に対する(学区制などに基づく)優先順位は

1中:一郎>三郎>二郎
2中:二郎>一郎>三郎
3中:二郎>一郎>三郎

だとする。


ここで、かつてボストンの学校選択制度において使われていた、通称「ボストン・メカニズム」を考えてみよう。ボストン・メカニズムは、

ステップ1:各生徒は第1志望に応募する。各校はその優先順位に従い、応募者を定員の許す限り受け入れる
ステップ2:ステップ1で受け入れられなかった生徒は、それぞれ第2志望に応募する。ただし、ステップ1で既に定員が埋まっている学校には自動的に拒否される。

以下繰り返し

というものである。

もし各生徒が正直に彼の本当の第1志望・第2志望・・・に従って応募したとしたら、

ステップ1:一郎は2中、二郎・三郎は1中に応募。1中は三郎を受け入れ、2中は一郎を受け入れる。
ステップ2:二郎は第二志望の2中に応募するも、既に定員が埋まっているから拒否される。
ステップ3:二郎はやむなく3中に応募し、受け入れられる。

となる。

このとき、二郎は第二志望の2中ではトップの優先順位を与えられているにも関わらず、第一志望で応募しない限り、一気に第三志望まで回されてしまう。このことは、二郎に2中が第一志望であるフリをする動機を与えてしまう。すると今度は、一郎は第一志望の2中にはねられ、しかも第二志望の1中は既に三郎に取られており、一気に第三志望の3中にまで回されてしまう。よって今度は、一郎に1中が第一志望であるフリをする動機を与えてしまう。

等々していると、例えば一郎が1中を、二郎が2中を、そうなると三郎は(どこを志望しようが結果は同じだが)3中を志望する、というような事態に落ち着く。これを見て「みんな第一志望の中学校に入っている。ボストン・メカニズムはうまく行っている。めでたしめでたし」と喜んでいるとしたら、まさにおめでたいという他はない。


このことは、制度を設計するにあたっては、各経済主体はそのもとで戦略的に振舞うことを考慮に入れねばならないことを如実に物語っている。ゲーム理論の出番はここである。そして、戦略的行動を取り扱うゲーム理論はここでは、「どうしたら生徒達が戦略的相互依存関係にな悩まずに済むか」という方向にいわば逆利用されているのだ。

本書には主に、耐戦略的=「正直な選好を申告することが(他人がどうしようと)常に最適である」なメカニズムの理論的追求とその応用に関する最新の結果が収められている。ありがちな孫引きのサーベイにとどまらず、著者ら自身による理論的貢献や政策提言も与えられている。

学校選択制それ自体に興味がある人はもちろん、そうでなくとも、制度設計において戦略的行動を考慮に入れることの重要性およびゲーム理論のパワフルさをこれほどクリアーに理解させてくれる話もないので、制度設計一般に興味がある人にもお薦めであると言える。


実務にタッチしていない理論家として(苦笑)一つ懸念を挙げるとするならば、やはり既に指摘されている通り、ある問題を、その「他」を所与として固定し、そこから切り離した上で改善しよう、という部分均衡論的アプローチにあろうか。ある問題(学校選択問題)を解決するために政策を変えた場合、各経済主体がその「他」のところで行動を変えるがゆえに(例えば居住地それ自体の変更や教育投資の変更、友達付き合いの変更)、それが今度は当該問題における彼らの価値基準それ自体を変えてしまい、政策が所期の目的を果たしえなくなる、という可能性がある。この懸念は本書でも常に念頭に置かれているし、わざわざコメントするのはフェアではないかもしれないが、読み進める上ではやはり常に念頭においておくべき事だと思われる。