主観的確率と帰結評価の二重不一致と「見た目の全会一致」

不確実性のもとで選択の評価を社会的にどう集計するか,という問題を考える.具体例はいくらでも浮かぶだろうが,敢えて言及しない.

静的な社会的選択論と異なり,ここでは「選択=帰結」ではない,なぜなら選択の帰結は諸々の不確実な要因に左右されるからである.そこでは,二種類の意見の不一致がある.*1

まず,選択の帰結の評価が人々の間では異なる.一つの帰結がある人にとっては望ましいがある人にとっては望ましくない,そして他の帰結については逆,などなどというのが常態だ.これは静的な社会的選択論で既にカバーされている話である.

もう一つは,不確実要因についての確率的予想の不一致である.*2究極的な意味においては,「正しい確率」などというものは存在せず,あくまでも確率は主観的なものに過ぎない.

この主観的確率と帰結評価の二重不一致が存在するときには,「見た目の全会一致」が起こる.Gilboa, Samet, Schmeidler (2004)による次の例を考えよう.2人はこれから決闘するか否かという選択に直面している.帰結の評価は,それぞれ自分が勝ったら嬉しいものとする(馬鹿げた仮定であるが,ここにツッコミを入れぬよう).主観的な予想は,それぞれ自分が勝つものと思っているものとする.なので,2人の選択に対する評価は双方ともに,「決闘することがしないことよりも望ましい」という全会一致になる.

ここで,「全員がXがYよりも望ましいと言うならば社会的にもXがYよりも望ましいとすべし」というパレート原理に従うならば(事後の帰結の評価でなく事前の選択の評価に適用されるパレート原理を特に事前パレート原理と呼ぶ),この2人は決闘すべし,ということになる.これを馬鹿げていると考えるか,受け容れるべきと考えるかは,「人は己の確率的予想に対して責任を負うか」に依存しよう.

形式的には同じ例をあげるとこうなる.Aは明日は晴れると思っており,Bは明日は雨だと思っている.ここで固定された資源の配分を考え,X=「晴れたらAが資源を総取り,雨ならBが資源を総取り」とY=「晴れでも雨でも資源を平等配分」の2択を考えよう.帰結の評価は,ABそれぞれ自分の資源の取り分が多い方を望んでいるものとする(ここに無関係なツッコミを入れぬよう).このとき,AB双方ともにXがYよりも望ましい,という全会一致が得られる.*3

前者の例ではこの「見た目の全会一致」を受け容れるのは馬鹿げていると思った人でも,後者の例では「それぞれ自分の信念があるんだから賭けさせてやっても良いではないか?」と思った人がいるかもしれない.とすれば,「人は己の確率的予想に対して責任を負うか」は帰結の苛烈さとマイルドさに依存すると考えて良さそうだ.

事前においては「正しい確率」などというものはないし,「100%」「絶対に」とか言わない限り事後においても「正しかった確率」などというものは分かりようがない.それは結果論でしかない.

もちろん,傍目には「バカな予想」にしか見えないものがある.そんなとき,どんな「バカな予想」であれ,本人がそれが正しいと信じて己の期待効用計算をしたうえで「この選択が良い」と言ったならばそれは一つの意見として聞くべきなのか,あるいは「あなたの帰結の評価は好みの問題だからそのまま聞きますが,あなたの主観的確率は『間違っている』ので,この『正しい確率』を使ってあなたの期待効用を計算した上で選択の評価をやってください」と一旦突っ返すべきなのか.

いつものことであるが,ここではそれに対する答えは出さずに,「人は己の確率的予想に対して責任を負う」という考えが社会的選択の他の次元での「合理性」とどれだけ折り合うか,あるいは折り合わないものであるかを見ることにしよう.

統計学の素養がある人ならば,次のような意思決定を「合理的」と考えるだろう.まず諸個人の異なる主観的確率を集計して「コンセンサス的確率」を作成し,そして諸個人の異なる帰結評価を集計して「コンセンサス的帰結評価」を作成し,その上で「コンセンサス的確率」でもって「コンセンサス的帰結評価」の期待値を取れば良いではないか,と.だが,事前パレート原理の下ではこれが不可能であることが知られている(Mongin (1995), Chambers and Hayashi (2006)).*4 *5

「人は己の確率的予想に対して責任を負う」という考えと,統計学的意思決定の「合理性」とは折り合いが悪いのだ.前者を取るならば,どんな「バカな予想」であれ,それに基づく本人の主観的期待効用計算をそのまま一つの意見として聞かねばならない.後者を取るならば,「あなたの主観的確率はコンセンサスから外れているので,このコンセンサス的確率を使ってあなたの期待効用を計算した上で選択の評価をやってください」というぐあいに個人の意見を一旦突っ返さねばならない.



参考文献
Gilboa, Itzhak, Dov Samet, and David Schmeidler. "Utilitarian aggregation of beliefs and tastes." Journal of Political Economy 112.4 (2004): 932-938.
Mongin, Philippe. "Consistent bayesian aggregation." Journal of Economic Theory 66.2 (1995): 313-351.
Mongin, Philippe. "Spurious unanimity and the Pareto principle." Economics and Philosophy (1997): 1-22.
Chambers, Christopher P., and Takashi Hayashi. "Preference aggregation under uncertainty: Savage vs. Pareto." Games and Economic Behavior 54.2 (2006): 430-440.
Chambers, Christopher P., and Takashi Hayashi. "Preference aggregation with incomplete information." Econometrica 82.2 (2014): 589-599.

*1:「帰結」だけが重要でない倫理的理由は他にもあろうが,ここでは問題にしない.

*2:そもそも不確実な状況において人間が抱く予想を確率分布という特定の数学的形式で書けるのか,という問題はあるが,ここではそれは脇に置くことにする

*3:ABそれぞれがゲーム理論的な意味で「合理的」であるならば,ここでAは「なんでBは雨に賭けるんだ?それには理由があるに違いない」と考え,Bも「なんでAは晴れに賭けるんだ?それには理由があるに違いない」と考え,それぞれ考えなおした挙句に「やっぱりYが良い」に落ち着くことが考えられるわけだが,ここではそういう読み合いを通しては解消しないような根源的な信念の不一致を問題にしている.

*4:質問があったのでなぜ不可能性に至るかを説明する.Mongin (1995)の不可能性の証明は純然たる線型方程式系の解の不存在に帰着するものである.だが,Chambers and Hayashi (2006)は事前パレート原理と帰結評価の状態(例えば晴れか雨)からの独立性との間に直接的な矛盾があることを示した.選択の評価が主観的期待効用理論を満たすには,帰結評価が状態から独立でなければならない.というのも依存していると、例えば晴れた時の効用が2倍なのか晴れの確率が2倍なのか区別が付かず、選択の評価を導く確率が一意に定まらないからである.一方,事前パレート原理に従うならば,2つ目の例のように,ABどちらの厚生を重く取るべきかの判断が晴れか雨かに依存するので,帰結の評価が状態に依存してしまう.

*5:我田引水続きで言うと,Chambers and Hayashi (2014)は非対称情報下でより弱いパレート原理を考えてもなお不可能性に至ることを示している.