はじめに ――― 経済学における術語と日常用語との中途半端な被り方について

今日からブログを始めることにした。経済理論に関する雑文を載せる予定である。


さて、少なくとも日本語の言論においては、論敵を「効率至上主義」者あるいは「競争原理主義」者・「市場原理主義」者呼ばわりすることは、オーディエンスを味方に引き入れるのに極めて有効な手段の一つである。

何であれ相手の立場を「○○至上主義」「○○原理主義」へと仕立て上げて批判の的にすることはよくあることではあるが、「競争」「市場」「効率」については殊にその当てはまりが良いようである。おそらく、人々がそれらの言葉自体に画一化された社会と人間の姿 ――― とある優先順位を与えられた価値に資するもの以外は「無駄」と切り捨てる社会と、物事の多様性に無理解な人間の姿 ――― を想起するからだろう。

「競争」「市場」「効率」を鍵概念として用いる経済学を専攻する一人として、私はこの事態に苛立ちを覚える。たとえ肯定的に用いられる場合においてすら、言論界において用いられるこれらの言葉の意味するとところはもっぱら、経済学における術語としてのそれの意味するところから著しく乖離している。しかも多くの場合は、自分がタフでクールな人間であることをアピールするための飾りとして用いられているに過ぎない。

もちろん、これらの言葉を使うときには経済学における用法に則っていなければならない、などと言う決まりはないのだから、このこと自体に私が苛立つのは筋違いである。しかし、そうして使用されている概念に対する批判の矛先が他ならぬ経済学に向けられているとするならば、私の苛立ちも理解してもらえよう。もっとあけすけに言ってしまえば、特に人文系の言論においては、経済学は上のような意味での「市場」における「競争」を通じた「効率」の達成=社会の画一化の片棒を担いでいるとみなされているようなのだ。*1

言うなれば、自分の関与していない物品について製造物責任を問われているようなものであるが、経済学で用いる用語がその性質上中途半端に日常言語と被るために起こるこうした混同は十分に予測可能なものであるから、確かに経済学に関わる者たちがもっと注意を喚起してもよさそうなものである。


もっとも、社会科学の概念・用語というのは常にフリーライド(ただ乗り)される可能性をはらんでいるし、それも込みで概念なのだという言い方もできる。またそうした混同によって利益を得ている人たちもいることであるから(苦笑)、それはそれでそういうゲームではあるのかもしれない。

とはいえ、ある概念の含意する範囲を理解せずに金棒のように振り回す、あるいは逆にわざとその含意を弱く見せておいて社会的同意を得やすいようにしておきながらその背後に自分の利益の正当化を忍び込ませる、また一方では相手の主張の含意をわざと強く取ることによって批判の的にする、それを重ねた結果、ついには自分が相手の何に同意して何に不同意しているのかが分からなくなってしまう、というのは不健康な事態だと言ってよい。

このブログの目的はそうした混乱をひも解くことにある、といったら夜郎自大だが、まあ、手掛かり程度のものでも見つかったら備忘録的に記録していこうと思っている。

*1:いわゆる「反経済学」系の文献を当たれば山ほど出てくることなので、逐一文献引用はしない。