効率性と厚生比較 (1)

「効率」という言葉が言論において出てくるのはたいてい、「効率優先」を慨嘆するような文脈においてである。もう一方で、「効率」概念が積極的肯定的に用いられる場面においては、「これに同意できないのはバカだ」と言わんばかりに、あたかもそれが「科学的」な基準であるかのごとく言及されている。いずれにしても、こうした形で登場する「効率性」はある一元的な基準として用いられており、肯定も反発もそこに向けられているように見受けられる。

しかし、経済学においては本来、効率性それ自体はそんなに強い含意を持っていない。むしろ含意が弱すぎることの方が問題だと言っていいくらいである。*1もしこの効率性が何がしか一元的な基準に見えるようであるならば、それは「効率性 plus something」が語られているのであり、語っている当人がこの something に気づいていないかあるいは意図的に触れていないかのどちらかの理由によって、この something の性質までもが効率性に帰せられていると見てよい。この something はたいてい、自明でない倫理的判断である。

一元的基準に見える「効率性」を肯定的に用いる人は、経済学とは関係なしに「効率性」を彼の判断の指示語として用いているか、こうした判断の付加に気づいていないか、気づいている場合にはその判断を表沙汰にしたくなく(あくまでも価値中立な「科学者」として振る舞いたいので)、それを効率性の含意として押し切ることの方を選んでいることになる。その結果、本来その判断が別個に批判的検討にのせられるはずだったのが効率性の属性として取り扱われてしまい、その判断のみについて批判的であったはずの人にも効率性が「強者の論理」として認識されてしまうことになる。「強者の論理」というレッテル貼りは不毛であるが、そうした事態を招来したのが何であるか、よく考えてみるべきである。


以上を踏まえた上で、もう一度効率性および厚生比較についておさらいしてみよう。

*1:例えばセンのリベラル・パラドックスやそのうち述べるであろう分割不可能財の配分や不確実性下での選好集計など、文脈によっては効率性はそれでも強すぎる要請であると認識される場合があるが、それはここでの話とはスコープがだいぶ異なっている。本稿ではむしろ弱すぎる面に着目している。