効率性と厚生比較 (4)

費用便益分析というのがある。これは、ある「決定」の帰結を分析する際に、各人の選好が余剰=「決定からの便益+所得の増減」で表現されると考える。ここで決定をxで表記し、主体i(ただしi=1,\cdots,n)の所得の増減をt_{i}で表記する。例えばxは公共財の量であったり、あるプロジェクトを行う行わないであったり(行う=1、行わない=0)、あるいは単にとある私的財の配分かもしれない。ここでもしiから所得を徴収するならばt_{i}はマイナスで、逆に所得移転を与えるならばt_{i}はプラスである。このとき、個人iにとってのxからの便益をv_{i}(x)と表す。これは、個人iは決定xをなさしめるためにv_{i}(x)単位の所得を犠牲にする用意がある、ということである。この2つをあわせると、個人iにとってのネットの便益=余剰は v_{i}(x)+t_{i}となる。

まず、なんで人の選好がそんなに単純に表現されうるのか、という問題があってそれはそれで問題なのだが、話の本筋でないので、附論に回す。

さて一方、決定xを為すために必要な費用をC(x)で表す。このとき、トータルの社会的選択は、決定xとそれに付随する所得移転の組み合わせt_{1},\cdots,t_{n}からなり、まとめて(x,t_{1},\cdots,t_{n})と表記する。なお、所得移転を伴わない「決定」と区別するために、逐一小うるさく「トータルの社会的選択」と書く。これが実行可能であるためには、所得増減の総和が費用の支払いに一致せねばならない。つまり、 \sum_{i=1}^{n}t_{i}=-C(x)でなければならぬ。すると、余剰の総和は \sum_{i=1}^{n}\left(v_{i}(x)+t_{i}\right)=\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)+\sum_{i=1}^{n}t_{i}=\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)となり、便益の総和マイナス費用に等しくなる。これを社会的余剰という。


このとき、トータルの社会的選択(x,t_{1},\cdots,t_{n})がパレート効率的であることの必要十分条件は、xが社会的余剰\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を最大にすることである。なぜかというと、もしあるyがより大きな余剰すなわち\sum_{i=1}^{n}v_{i}(y)-C(y)>\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を与えるならば、 \sum_{i=1}^{n}s_{i}=-C(y)となるようなs_{1},\cdots,s_{n}を適当に選んでやることによってすべてのiについてv_{i}(y)+s_{i}>v_{i}(x)+t_{i}が成り立ち、(x,t_{1},\cdots,t_{n})に対するパレート改善をなしてしまうからである。


ここに、「効率性=余剰の最大化」という見慣れた図式が現れる。これに従えば、効率性は余剰を最大化するxを決定しうる。

よくこれを「効率性=社会的厚生の最大化」として言及するものがある。これは明確に誤りである。社会的余剰と社会的厚生は違うのである。何故か?仮に社会的厚生なるものがうまく定義されたとしてそれが最大化されているならば、それはトータルの社会的選択を決定するものでなければならぬが、効率性はトータルの社会的選択を決定しないのである。

どういうことだろうか?もう一度、最大化されるべき\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を見て欲しい。ここには所得移転のリストt_{1},\cdots,t_{n}が現れていない。要はt_{1},\cdots,t_{n} \sum_{i=1}^{n}t_{i}=-C(x)を満たすものならなんでも良いのである。つまり、この設定で効率性は余剰の最大化と同値であるが、最大化された余剰がどう配分されるかについて何も言っていないのである


さしあたりこのエントリーはここで止めよう。「まずはパイを増やすのが大事だ」というのはたいてい、効率性と公平性の問題とを峻別できない人に対して侮蔑的に用いられるフレーズだが、これを発する時には、自分は効率性のみを論拠にしている時には本当にパイの配分についてオープンな姿勢を貫いているのか、について自問してみるべきであろう。



附論

とある決定とそれに伴う所得移転について、選好が「決定による便益+所得の増減」の形で表現できるのはどういうときだろうか?本来、「その決定のために犠牲にする用意のある所得」の値は、その人がもともと所得をどれぐらい持っているかに依存しているものである。しかし、費用便益分析に登場する便益はあたかも当人の所得に依存していないがごとく与えられている。つまりここで陰伏的に仮定されているのは、その「決定」が経済全体に比して十分小さい、ということである。小さな買い物、例えば100円のジュースを買うに際し、我々はそれが「値段に比して」割高か割安かは考えたりするが、その100円の出費が他の消費に与える影響はまあおおむねないものとして考えていると言えよう。つまり、「小さな買い物」においては、便益を計算するのに所得の絶対額を考慮にいれる必要がなく、便益が所得の相対的減少に見あうか否かだけが問題となる。*1

これは、「大きな買い物」には当てはまらない。「大きな買い物」の場合は当然、それのために所得をどれだけ犠牲にできるかは所得の絶対額に依存する。こういう状況で上のような分析をあてはめようとするとエラーが大きくなる。

*1:経済学用語で言うと、所得効果がない、という。