効率性と厚生比較 (3)
承前
パレート改善というのは、誰をも損させることなく誰かを得させることができることであった。これに基づく社会的選択肢の比較基準をパレート基準という。それは、「YがXをパレート改善するならば、またそのときに限って、社会的にもYがXよりも望ましい」というものである。「またそのときに限って」という部分に注意である。つまり、一人でも誰かが損をするならば、パレート基準はそれが社会的により望ましい選択なのかを決めることができないのだ。交換のようにそれによってみんなが得をするような社会的移行は、パレート改善であってこの基準によって支持できるが、一方、多くの社会的移行(特に政策によるそれ)は、それによって誰か損をする人を生み出さざるを得ず、この基準は適用不可能である。
では、「たとえ誰かが損をするとしてもこちらの方が社会的に望ましい」というような決定のできる比較基準は考えられるだろうか?ここからが自明でない倫理的判断の世界である。
ここで真っ先に思い浮かぶのが、「最大多数の最大幸福」に則る(古典的)功利主義の考え方である。また、経済学は功利主義に立脚しているともしばしば言われる。功利主義は少数反対者の利益が顧みれないと批判される一方、「同じ財貨1単位でも、それが乏しい人に与えられたときの効用の増加は、それが富んだ人に与えられたときの効用の増加よりも大きいので、富者から貧者への所得再分配は効用の集計を増加させる」という論法で再分配政策を支持するものでもある。
しかし、古典的な功利主義は効用が基数的=効用が量的意味を持ち個人間で比較可能であると想定しているのに対し、現代経済学では「効用」関数は選好順序の表現に過ぎず(序数的)、それは記述的分析を円滑ならしめるためだけのものであり、そこに量的意味はなく個人間比較も無意味である、という考え方を取っている。もちろん、だから効用の個人間比較を放棄せねばならないということにはならないが、もはやそれは記述論的な想定としてではなく、内観に基づく倫理的言明に他ならず、これを前提に話をする際には逐一断らなければならない性質のものである。現代経済学は功利主義的ですらないのである。
これを進歩というのか退歩というのかは分からないが、少なくとも効用の個人間比較をナイーブに仮定するのは、経済理論では「負い目」とみなされるようになった。そこで、効用の個人間比較を想定せず、なおかつパレート基準が当てはまらないケースでも決定が下せる比較基準が模索されることとなった。
もっとも有名なのは、資源配分に話が限られるが、カルドア・ヒックス基準である(補償原理とも言う)。これは、「配分と配分を比較したとき、もし配分から再配分をすることによってあるが得られ、そのがをパレート改善するならば、がよりも社会的に望ましい」という基準である。例えば、1種類の財貨をAとBの2人に分けるケースを考え、2つの配分およびを考え、かつとしよう。このとき、からへの移行はBを損させることになるから、パレート改善ではない。しかし、においては財貨の合計は単位増えるから、これを再配分してとあるなるについてを得れば、それはよりもパレート改善している。カルドア・ヒックス基準は、このときはよりも望ましいことを含意する。つまりは、「まずはパイを増やせ」ということである。
ここで、一定割合の読者はこう思ったであろう。「もしそんなが得られるんなら、そうすりゃあいいじゃないか」と。そこなのである。注意すべきは、ここでのはあくまで仮説的なものであり、実際に再配分が行われてが与えられる必要はない、ということである。果たしてそのような移行に説得力があるだろうか?
ある社会的移行によって損害をこうむる人に対して、「移行が実現したら再配分=補償が可能になって、それによってあなたも得することができますよ」と言ったところで、その再配分が仮説的なものに過ぎず損害が放置されてもかまわないとされるならば、その人を納得させるのは無理というものであろう。では、果たしてこれは「既得権者のエゴ」なのだろうか?
「既得権者のエゴ」と断定するのは一つの倫理的判断であり、そのこと自体を否定するものではない。しかしそれは主体的判断としてなされる性質のものであって、あたかも客観的な言明であるかのごとく語るのは誤りである。
そもそも、「まずはパイを増やせ」ということならば、要はこの場合を満たすならなんでも良いわけで、必ずしもである必要はない。にもかかわらず仮ににこだわるならば、それは一定の倫理的判断にコミットしていることになる。
繰り返すが、それがいけないと言っているのではない。例えばここではパイの増加が「誰のおかげ」かということを考慮に入れていないから、それを考慮に入れたならば、必ずしも再配分によるパレート改善が行われなくとも「正当」な配分であることの社会的同意が得られるかもしれない。問題は、その倫理的判断を明らかにせずに、あたかも価値中立な概念から導かれるものと(意図的にせよ非意図的にせよ)偽装してしまうことである。これによって、本来は互いにorthogonalな関係に過ぎなかった効率性と公平性とが、誤って対立・矛盾関係に置かれてしまうのだ。
結局のところカルドア・ヒックス基準は、このような効率性と倫理的判断との混同にお墨付きを与えてしまっただけだ、といったら厳しすぎるだろうか?
さて、経済学をかじった読者の中には、「しかし、費用便益分析においては、効率性だけに基づいて社会的余剰を最大化するアウトプットが一意に決定できているではないか?」と感じる向きもあろう。実は、一意に決定できてはいない。次のエントリーでは、それについて説明しよう。