資源配分の公平性 (1)

資源配分の公平性について、書けるところまで書いてみようと思う。

意図的にそれと標榜している人でない限り、一般に経済学者は公平性について議論することがない。それは主観的には、「本分を超えたことは言わない」「特定の倫理的価値判断には関わらない」という一種の良心からなのであろうが、それは客観的には、公平性の議論が論題に上らないおかげで説得力を保持しているような言論に加担していることになりかねない。

しかし、特定の倫理的価値判断に肩入れせずとも、種々の漠然とした理念を定式化し、それらの成立可能性、それらの間の論理的関係・両立可能性・不可能性を調べ、公平性に関するフォーマルな議論の共有を助けることは可能なのであり、それはまさに経済学者の職分の一つだと言えよう。


さて、「何が公平か」というのは結局のところ、「人は何に責任を負うか」ということに帰着する。このことについて誰もが一致して受け入れられる基準が見つかっていないのはご存知の通りだ。そこでまずはとっかかりとして、各人が自分の人格(ここでは選好)にのみ責任を持ち、もって生まれた資源と能力に対しては責任を負わないような状況、一種の「原初状態」を考えよう。つまり、あらかじめ社会に賦存する資源は誰のものでもなく、誰が作り出したものでなく、誰のおかげによるものでもない、として話を進める。

まずは簡単に、m種類の財の消費を配分するモデルを考え、生産は考えない。また、財はいくらでも細かくやり取りできる分割可能なものだと想定する。このとき、資源の賦存量はベクトル \Omega=(\Omega_{1},\cdots,\Omega_{m})で表され、これをn人の間で配分する。

このとき、われわれの「公平」のセンスにかない、なおかつ不当に強すぎない基準はどんなものだろうか?


平等配分
真っ先に考えられるのは平等配分だろう。つまり、各人は一律に \frac{\Omega}{n}=(\frac{\Omega_{1}}{n},\cdots,\frac{\Omega_{m}}{n})を受け取る。しかし、人々の消費に対する好みは多様であり、それを無視して一律の配分を強いるのは賢い方法とは言えないだろう。*1


平等効用(?)
では、「外形的には平等でなくとも、人々が等しく幸せであればよい」という考え方はどうだろうか?つまり、個人iが彼の消費x_{i}から得られる効用をu_{i}(x_{i})と表記すると、効用の平等はあらゆるi,jについてu_{i}(x_{i})=u_{j}(x_{j})が成り立つことである。

察しのいい人は、この基準が一つの「信仰」があって初めて成り立つことが見て取れよう。それは、各人の効用数量的意味を持ち、個人間で比較可能である、という信仰である。

一つの選好を表現する「効用」関数はいくらでもある。*2関数u_{i}が個人iの選好を表現するなら、例えばそれを2倍して2u_{i}なる関数を考えてもこれは同じ選好を表現する。個人iの効用を与えるのにu_{i}ではなく2u_{i}を用いたならば、実際にそれで彼の幸福度が2倍になったと言えるだろうか?しかし一方で、「平等効用」の条件においては個人iの効用は2倍に算定されて2u_{i}(x_{i})=u_{j}(x_{j})となり、これは彼にとって不利に働くのだ。

つまり、平等効用の議論は、一つの選好の表現としていくらでもある関数のうち、「これぞ社会的価値判断を行う際に正しい関数」というものが一つに絞られていることを要求している。これは一つの信仰である。

特定の信仰に基づいているからといって、その(規範的)議論は一概に否定されるべきではない。信仰がなければ物事は前に進まないし、むしろ積極的に押し出されるべきものならば押し出されるべきであろう。

とはいえ、こうした信仰を持ち出すことなく公平性が議論できるならば、受け容れられる余地が広がるという点において有効である。以下に紹介する「羨望の不存在」としての公平性は、効用概念を用いず、各人の選好のみに依拠した基準である。


羨望の不存在としての公平
配分x=(x_{1},\cdots,x_{n})において、個人iが個人jを羨むとは、 x_{j}\succ_{i} x_{i}となることを言う。つまり、個人iが自分の受け取るものよりもjが受け取るものの方を好んでいることを言う。

この羨望は果たして「正当」なものであろうか?例えば、個人が自己の能力に対して責任を負うと考えられている場合においては、他人が彼の能力によって得たものに対して抱く羨望は一概に正当とはみなされない。しかし、今考えている「原初状態」においては、誰も彼自身の選好以外に対しては何に対しても責任を負わないと想定されているから、この羨望は考慮に値すべきものと言えよう。

そのうえで、配分x=(x_{1},\cdots,x_{n})において羨望が存在しないとは、誰もが誰をも羨まないことを言う。


効率と公平*3
公平性(無羨望性の意味での)と、以前取り上げた効率性とは、概念的には全く互いに独立したものである。例えば、誰か一人に資源を全て与えるのは、パレート効率的ではあっても、明らかに羨望を生む。一方、平等配分は明らかに無羨望性を満たすが、好みが多様な状況においては効率的ではない。

しばしば両者が概念レベルで背反的だと捉えられがちだが、これは明確に誤りである。効率性と公平性とが両立するか背反するかは、技術的条件の問題、特に財の分割可能性の問題である。

例えば、ここで取り上げた、財が連続的に分割可能な環境では、両立する。最も顕著な例は、平等配分からスタートした競争均衡配分、つまり、まずは資源を各人平等に分け、それらを市場で自由に交換させて得られた配分である。競争均衡配分がパレートの意味で効率的であることはよく知られている。また、初期保有が平等であることから、全ての人が同じ所得と予算制約に服している。したがって、他人が買ったものは自分も「買えた」ものであり、にもかかわらず自分は自分のものを買ったのであるから、他人を羨む余地は存在しない。よって、平等配分からスタートした競争均衡配分は効率的かつ無羨望の意味で公平である。

一方例えば、たったひとつの分割できない物体があって、これを誰に与えるか、という問題を考えよう。このとき、誰にこれを与えたとしても、他の人は彼を羨むことになる。唯一、羨望を生まない方法はこの物体をドブに捨てることであるが、これは明らかに効率的ではない。

ということは、分割不可能性の故に効率性と公平性との両立が阻まれている場合でも、「分割」の仕方を考え直すことによって(例えば時間配分で分割するなど)両立が図られうる、ことでもある。

いずれにしても、そうした技術的条件の特定を待たずして、「効率か公平か」の2択を議論するのは無意味だと言えよう。


次回のエントリーでは、生産経済における公平性の議論を紹介する予定。

参考文献
Foley, D., 1967. Resource allocation and the public sector. Yale Economic Essays 7.
Varian, H., 1974. Equity, envy and efficiency. Journal of Economic Theory 9, 63–91.

*1:もし人々が自己の選好にすら責任を持たないのであれば、外形的な平等の徹底はそれなりにリーズナブルかもしれないが。

*2:関数uが選好\succeqを表現するとは、x\succeq yxy以上に好ましい)ならばu(x)\ge u(y)で、逆も成り立つことを言う。一つの選好の表現がいくらでもあることは、任意の単調増加関数fuを変形したf\circ uも同じ選好を表現することから容易に見て取れよう。

*3:この節を書くにあたり、ny47thさんのツイートに多分にインスパイアされました。記して感謝します。