資源配分の公平性(2)

生産経済における資源配分の公平性について述べる。


能力の差異がない場合
人々の間に能力の差異がないならば、交換経済における議論をそのまま容易に拡張できる。選好の対象に「余暇」を含めるだけである。そのうえで「原始状態」においては、交換経済と同じく、人々は自分の選好以外のものには責任を持たないと考えられる。つまり、ここで許容される「格差」=異なった労働時間によって異なった消費が人々の間でなされることは、純粋により多く時間を余暇に回したいか労働に回したいかの選好によってのみ説明される範囲に限られる。

よりフォーマルに、個人iの消費と余暇の組み合わせを(x_{i},l_{i})と書き、彼の余暇へのそれを含んだ選好を\succeq_{i}と書こう。このとき、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},l_{j})\succ_{i} (x_{i},l_{i})たることを言う。つまり、iが自分の消費・余暇よりもjの消費・余暇を好む状態を指す。そして、消費と余暇の配分(x_{1},l_{1}),\cdots,(x_{n},l_{n})が無羨望であるとは、誰もが誰もを羨まないことを言う。

この意味での無羨望性と効率性は、交換経済におけるのと同じように両立する。やはり最も顕著な例は、平等配分からスタートした競争均衡配分である。つまり、まずは資源を各人平等に分け(時間はもともと各人平等に与えられているものとする)、企業の所有権(利潤配当を受け取る権利)を平等に分け、その上で市場で自由に交換させて得られた配分である。競争均衡配分がパレートの意味で効率的であることはよく知られている。また、初期保有が平等であること、時間が平等に与えられていること、企業の所有権が平等に与えられていることから、全ての人が同じ所得と予算制約に服している。したがってここでも、他人が選んだものは自分も「選べた」ものであり、にもかかわらず自分は自分のものを選んだのであるから、他人を羨む余地は存在しない。よって、平等配分からスタートした競争均衡配分は効率的かつ無羨望の意味で公平である。


とはいえ、実際問題われわれが公平性について頭を悩ましているのは、人々の間で能力に差異があるからだろう。能力に差異がある場合にも、上述の概念を拡張できるだろうか?

当然のことながら、何がリーズナブルな拡張かは、「人は自分の能力に対して責任を負うか」に依存する。能力の差異を全くの所与と取るならば、それに対する責任の比率は小さくなろうし、能力の差異が何らかの行為の帰結であるならば、それに対する責任の比率は大きくなろう。つまり、「何が選択できるもので何が選択できないものであるか」に依る。

ここでは、人が自分の能力に対して責任を負うのか否か(およびどれぐらい負うのか)について結論は出さず(というより出せない)、それぞれの考え方の含意を紹介しようと思う。


能力の差異があり、各人が自分の能力に責任を負わない場合
まずいったん、「責任を負わない」という立場から見てみよう。その場合、羨望の定義は先の場合と変わらず、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},l_{j})\succ_{i} (x_{i},l_{i})たることを言う。

しかし、この定義による無羨望性は効率性と必ずしも両立しないことが示されている。Pazner and Schmeidlerによる反例を挙げよう。2人の個人AとBがいて、1種類の財は労働のみから生産されるものとする。時間は2人とも1単位与えられているとする。Aは1単位時間のあたりの労働で1単位の財を、Bの1単位時間当たりの労働は0.1単位の財を生産するとする。2人の消費と余暇に対する選好はそれぞれ、
 u_{A}(x_{A},l_{A}) = 1.1 x_{A}+l_{A}
 u_{B}(x_{B},l_{B}) = 2 x_{B}+l_{B}
で表現されるとしよう。つまり、スキルが高くてかつ相対的により多くの余暇(少ない労働)を望むAと、スキルが著しく低くかつ相対的により多くの消費を望むBの組み合わせである。Aは相対的にあまり働きたくない方なのだが、彼のスキルの高さはそれを帳消しにして余りあるほどで、Bは相対的により多く働いてもいい方なのだが、彼のスキルの低さはそれを帳消しにして余りあるほどである。

このとき、パレート効率性に従うならば、Aは1単位時間をまるまる労働に当て(l_{A}=0)、Bは全く働かない(l_{B}=1)。*1その上で、AがBを羨まないようにするには 1.1x_{A}\geq 1.1x_{B}+1であることが必要だが、 x_{A}+x_{B}=1を考慮に入れるとこれは x_{A}>\frac{21}{22}である。一方、BがAを羨まないようにするには 2x_{B}+1\geq 2x_{A}であることが必要だが、 x_{A}+x_{B}=1を考慮に入れるとこれは x_{A}<\frac{3}{4}であり、先の条件と両立しない。

つまり、典型的には、相対的にあまり働きたくない方のAは「Bはたくさん休めて羨ましい」となり、相対的により多く働いてもいい(より多く消費したい)方のBは「Aはたくさん消費できて羨ましい」という状況が現出してしまう。


前回、交換経済においては公平性と効率性は両立し、非両立はもっぱら財の分割不可能性という技術的問題であると述べたが、ここにおける非両立はむしろ概念レベルのより深刻なものであり、公平性と効率性のどちらかおよび双方を考え直す必要がある。


能力の差異があり、各人が自分の能力に責任を負う場合
Varian (1974)は、生産経済において各個人が自分の能力に責任を負う想定のもとでの公平性の概念を考えた。ただし、ここでの「能力」の違いは、労働時間を増減させることによって埋め合わせることのできるスキルの違いに限られる。

簡単な例で説明するとこうである。仮にあなたとあなたの友人が全く同じ職種(説明しやすいので製造業としよう)についており、同じ完成品を作るのにあなたは2時間、友人は1時間かかるする。また、完成品1つにつき5千円支払われるものとする。このとき、あなたが8時間働いて4つの完成品を作り2万円得て、友人は6時間働いて6つの完成品を作り3万円得たとしよう。

能力に責任を持たない場合においては、あなたは友人が6時間労働で3万円得たこと羨むことが「正当」とされる。しかし、もしあなたが自分の能力に責任を持つならば、あなたが友人と同じ生産をするのに必要とする労働時間は2×6=12時間であり、真に比較されるべきは「6時間労働で3万円」ではなく「12時間労働で3万円」である。それを踏まえて、あなたが「12時間労働で3万円」の方が8時間で2万円よりも良いと思うならば、それは「正当」な羨望とみなされるし、そうでないならば、それは正当な羨望とはみなされない。これがVarianの提案した羨望概念である。


よりフォーマルに書くと以下のようになる。説明の簡単のため、財は一種類で労働のみから生み出され、生産技術は線形だと仮定して話を進める。つまり、個人iの1単位労働時間が生み出す財を a_{i}とし、彼のq_{i}単位労働時間が生み出す財の量はa_{i}q_{i}で与えられると考える。また、全ての個人はあらかじめ1単位の時間を与えられているとする。

このとき、消費と労働 x_{i},q_{i}を行う個人iが、消費と労働 x_{j},q_{j}を行う個人jを羨むことが「正当」かどうかを次のように考える。

個人j q_{j}単位時間を労働に振り向けたとき、生産される財はa_{j}q_{j}である。これと同じ量の生産を個人iが行うのに必要な労働時間は a_{j}q_{j}/a_{i}である。したがって、iがもしjに代わって同じ量を生産すべく働くなら、それがもたらす消費と余暇の組み合わせ (x_{j},1-q_{j})ではなく (x_{j},1-a_{j}q_{j}/a_{i})である。その上で、個人iが個人jを羨むとは、 (x_{j},1-a_{j}q_{j}/a_{i})\succ_{i} (x_{i},1-q_{i})たることを言う。


この意味で定義された無羨望性は、再び効率性と両立する。最も顕著な例はやはり、平等配分からスタートした競争均衡配分である。つまり、まずは資源を各人平等に分け(時間はもともと各人平等に与えられているものとする)、企業の所有権も平等に分け、その上で市場で自由に交換させて得られた配分である。ただし賃金は、労働時間ではなく生産物に対して支払われる。効率性は競争均衡の性質によって引き続き保たれる。また、同一の生産物に対して同一の賃金が支払われるので、各人が自分の能力に責任を負う場合の無羨望性を満たす。


各人が自己の能力に責任を持たない想定での無羨望性は効率性と必ずしも両立せず、責任を持つ想定での無羨望性は効率性と両立する。とはいえ、ある立場に基づいて定義された無羨望性が効率性と両立するならOKで両立しないならダメだ、というのも短絡的であろう。例えば、Fleurbaey & Maniquet (1996) は、各人が自己の能力に責任を持たない想定のもとで、無羨望性よりもマイルドな公平性概念を考えて、それが効率性と両立することを示している(ただし、そのマイルドにするやり方がアドホックすぎるきらいはある)。



参考文献

Varian, H., 1974. Equity, envy and efficiency. Journal of Economic Theory 9, 63–91.

Pazner, E., and D. Schmeidler, 1974. A difficulty in the concept of equity. Review of Economic Studies 41, 441-443.

Fleurbaey, Marc & Maniquet, Francois, 1996. Fair allocation with unequal production skills: The No Envy approach to compensation, Mathematical Social Sciences, Elsevier, vol. 32(1), pages 71-93.

*1:なぜなら、Aの(限界)生産力=1単位時間労働あたりの財の生産は、ABそれぞれの(限界)代替率=1単位時間の余暇の財による主観的評価よりも高く、また、Bの(限界)生産力=1単位時間労働あたりの財の生産は、ABそれぞれの(限界)代替率=1単位時間の余暇の財による主観的評価よりも低いので