限定合理性研究の2つのジレンマ

人間が通常の経済学が想定するような意味で合理的ではない、という主張は受け入れたとして、それでは社会科学における人間行動の研究はいかなるものであるべきだろうか?

異なる主観的価値の貫徹あるいは充足(最大化とは言わないまでも)を目指す異なる個人が社会においてどう折り合うかあるいはどう相克するか、という社会科学の基本(唯一とは言わぬが)テーマを離れて、合理性を全く問わずに行動あるい心理の現象的な法則性のみを追求することは、事実分析のあり方として現実的ではないし、また少なくとも社会科学をやる上では意味がないと筆者は思っている。これは経済学における共通見解でもあると思う。首尾一貫的でないながらもそれなりの価値基準を持った個人が、完全でないながらもそれなりの推論能力を以って行動を選択する限定合理性の研究が追求されているのもその故にであろう。

そうした限定合理性の研究は2つのジレンマを抱えている。よく知られたジレンマだとは思うが、おさらいしてみよう。


1:限定合理的主体は合理的主体よりも難しい問題を解いている?*1

限定合理的な主体の選択行動を「問題解決」としてモデリングしようとするとまずは、計算能力や知識に制約を設けた問題を彼が解いている、あるいは同義だが、どれだけの計算能力を投入するか・どれだけの知識を探索した上で意思決定するか「という意思決定」問題を彼が解いていると考えることになる。しかしこれは一見、彼が完全な合理的主体よりも「難しい」問題を解いているという理解を催させる。というのも、制約がない問題よりも制約がある問題の方が解くのが難しいし、「どう意思決定するかを意思決定する」ことの方が単に意思決定することよりも難しいもの映るからだ。意地の悪い言い方をすると、「限定合理性のモデルは『より複雑なサーチモデル』に話を帰着させているだけではないか」ということになり、確かにこの批判が当てはまる研究も多い。

だがここで「一見」と断ったのはもちろん、これが「解く」「決定する」という行為のさまざまに異なる諸レベルを極限まで区別して取り扱えばエスケープすることが可能なことを示唆してのことだ。Lipman (1991)は、「選ぶ方法を選ぶ方法を選ぶ方法を選ぶ方法を・・・・・」という無限後退モデルを明示的に構成した。この無限後退モデルは、無限後退であるが故に、あらゆる意思決定ルールを包摂する。そしてそこでは、あらゆる意思決定は合理的と限定合理的とによらず、tautologicallyに最適問題の解である。つまり、合理的な主体はその整合性故に「どう意思決定するかを意思決定するかをどう意思決定するかを・・・」の無限後退に一見従っていないように見えるが、実は無限後退モデルの特殊ケースなのであり、限定合理的な主体がその無限後退性ゆえに完全合理的主体よりも「難しい」問題を解いているということはないのだ。

また最近の研究として、Salant(2008) がある。彼は、計算量の明示的な定義を(コンピュータサイエンスのそれに則って)与えた上で、通常の効用最大化よりも計算量が少ないような意思決定ルールは必ずフレーミング効果(ものの選好レベルの良し悪しに関わらず一定の位置・順序にあるものが選ばれやすい、という意味で)に従うことを示した。これは上記の知見と整合的と思われる。


2:「完全な知力を持つ意志力欠如者」と「ただのアホ」

例えばセルフコントロール問題を考えよう。「明日になったらダイエットするから、今日は多く食べたい」という現在の自分と、いざ明日になったらやっぱり「『今日も』多く食べたい」という明日の自分とがいる場合、両者の利害は一致しない。

このような「複数の自己」の行動様式をモデル化する際、行動経済学はおおむね2つの極端なタイプを想定している。1つは、明日になったらダイエットできると思って今日多く食べ、明日になったらやっぱりダイエットできない人。経済学ではナイーブな意思決定と呼んでいる。より抽象的に言うなら、将来の自分を律することが出来るという間違った思い込みを抱き、それが失敗してもなお、まだそこからの将来の自分を律することができるという思い込みを抱き続ける人である。言うなれば、自己の複数性がもたらす相克について全く学ばない「ただのアホ」である。もう1つは、将来の自分が現在の自分とは異なる利害を持つことを見越した上で事前に適切な手を打つ人。経済学ではソフィスティケイティッドな意思決定と呼んでいる。直近の将来の自分が無駄遣いをしないように引き出しの困難な預金手段を選ぶのはその一例である。

ナイーブな意思決定は、たとえ現実的経験的にそういう人が多いとしても、有意義な理論的知見につながるものとは言いがたい。もちろん、それはこの行動様式を想定した分析の経験的な意義を否定するものではない。

一方のソフィスティケイティッドな意思決定だが、これは言わば「分かっちゃいるけどやめられない」状況への対処だ。つまり、やめられないことは正しく「分かっている」ことは想定されているわけだ。将来の自己を律する「意志力」は欠如しているが、それを正しく認識し、将来の自己がどう行動するかを予測して現在の選択に織り込む「知力」は持ち合わせている、と想定されているのだ。だが経験的に考えて、意志力に欠ける人間がそれとは独立に知力を持ち合わせているとは考えづらいものがある。両者はそれなりに相関していると考えるのが至当ではなかろうか?

また、容易に想像が付くが、ソフィスティケイティッドな意思決定は先の第1のジレンマに抵触する可能性がある。というのも、将来の自己を相手にゲームをプレイすることは一見、整合的な単一の自己が解く動学的最適化よりも複雑なことのように見えるからだ。第1のジレンマをエスケープするには、実は整合的な単一の自己が解く動学的最適化のほうが、複数の自己を相手にしたゲームよりもより高度であることを明示的に示せねばなるまい。

というわけで、論点はナイーブとソフィスティケイティッドの中間をどう記述するかにシフトしつつあるように思える。いくつかの試みがあることを承知はしているが自分はまだ隔靴掻痒だと思うし、これは依然としてオープンクエスチョンだと思う。



参考文献
Matsushima, Hitoshi, "Bounded Rationality in Economics: A Game Theorist's View," Japanese Economic Review, 48(3), 1997
松島斉「限定合理性の経済学:あるゲーム・セオリストの見方」理論・計量経済学会編『現代経済学の潮流1997』,東洋経済新報社,1997年6月
Lipman, Barton, "How to Decide How to Decide How to. . . : Modeling Limited Rationality," Econometrica, Volume 59 (1991), Issue 4, Pages 1105-25
Salant, Yuval “Procedural Analysis of Choice Rules with Applications to Bounded Rationality”, American Economic Review, Forthcoming

*1:私がこのジレンマを初めて知ったのは、東大の松島斉先生の日本経済学会招待講演において。