経済学における極限論法 (1)

経済学には、その言明だけを見ると珍妙な現実離れとしか思えないような、しかも時には矛盾に見えるような仮定がしばしばある。

経済学者の多くはこうした仮定の使用を、いわゆる"as if"論法=「記述的理論の価値はその仮定の現実的妥当性にあるのではなく、それが統一的に説明できる事柄の豊かさによって決まる」によって正当化するわけだが、それでは満足できない人は多いだろう。また、"as if"で正当化できるのは記述分析のみで、それでは厚生分析もできなければ政策的含意も出てこない。またなにより"as if"では、「なぜそうでなければならないか」という必然性が説明できない。


経済理論は仮定の必然性について議論するとき、しばしば極限論法を取る。これは、仮定を所与として受け取るのではなく、背後に何らかのプロセス(動的な行為のプロセスにせよ、静的な推論・思考実験プロセスにせよ)があると考え、仮定の言明をそうしたプロセスの極限・収束点として捉えなおす考え方である。

これにより、(1)一見現実離れした仮定であっても、実はそれは現実的にappealingなプロセスが必然的に向かう行き先であることが示せる(その意味で、単なる近似ではない);(2)収束がどれだけ早いのか、あるいは収束しないとしたら何が原因なのかについてinsghtを与えてくれる;(3)極限における性質と有限における性質との違いが量化できるので、極限を「そのまま」仮定することの是非が議論できる、などの利点がある。

ただしトリッキーなのは、有限において極限での性質が成り立っていないことこそが事態を極限へと向かわせる駆動力となっていることがしばしばあることだ。

それを踏まえて、経済理論における極限論法をいくつか紹介しよう。


完全競争
経済学の本を開いて「『完全』競争」という言葉を初めて目にしたとき、「いったいどんな怖ろしい世界なんだそれは?」という印象を持った読者は多いに違いない。以前にも述べたように、この語感ゆえに経済学術語としての競争の理解はかなり歪められているわけだが、ここではそれが本題ではないので脇に置いて、術語としての完全競争に話を絞る。

市場が完全競争的(あるいは端的に競争的)であるとは、すべての経済主体が価格受容的である、つまり、個々の経済主体は価格を自分一人の力では動かすことのできない所与のものとして受け容れていることを指す。

これを文字通りに取る限り、何かおかしいことはすぐに分かるだろう。「誰もが価格に対して受動的にふるまっているのなら、いったい誰が価格を決めているのか?」あるいは「現実においては、たいてい売り手が価格を設定しているか、そうでなければ交渉で決まっているではないか?」と。

しかし、ある経済主体が価格設定のアクションを取っていることは、その主体が価格決定に力を及ぼしていることを必ずしも意味しない。売り手が価格設定を行っているにしても、利潤を追求する以上、当然買い手の動向・競合の売り手の動向を考慮に入れて価格設定をせざるをえない。この圧力が極限まで至ると、各売り手は自分で価格を設定しているにもかかわらず、結局のところ一定の「相場」を所与として受け容れざるをえなくなる。

では、どのような条件だと極限に至るだろうか?古典的なベルトラン的価格競争(限界費用が一定で、各企業で共通)においては、企業が二つ以上あれば、価格が限界費用まで押し下げられて完全競争に至る、というのが教科書的結果である。しかし一般には限界費用は一定でもなければ、企業間で同じでもない。

Funk (1995)は、そうした場合でも収穫逓減的技術を持つ無数の「潜在的」企業が存在して、かつ自由参入が保証されている場合には、やはり各企業は自分で価格を設定しているにも関わらず、その価格は他の企業が設定している価格と等しくなり、またその生産量における限界費用に等しくなることを示した。というのも、収穫逓減技術=「小さく操業するときは効率的で、大きく操業するにつれ非効率的」においては、既存企業が完全競争レベルよりも高い価格をつけている場合には、小さいながらも低価格で参入して利潤をかっさらう企業が多数現れてくるからである。*1


「自分で決めていながら、決めているのは自分ではない」という事態は一見矛盾に見えるが、そうした自由参入の極限として捉えることができる。


代表的企業とゼロ利潤条件
一般均衡モデルの多くではしばしば、収穫一定な技術を持ちなおかつ価格受容的な代表的企業でもって生産側を記述する。これまたそれだけ考えると実に珍妙な話ではある。

1インプット1アウトプットのケースで簡単におさらいするとし、インプットをxとしよう。このとき収穫一定技術では、アウトプットは線形関数Axによって与えられる。すると、アウトプット価格pとインプットの価格wを所与としたときに、代表的企業の利潤は pAx-wx=(pA-w)xとなる。ということは、もし[tex:pAw]のときは利潤最大化はx=0を導き何も生産活動が行われず、[tex:paw]のときはxは無限大に発散し、pA=wのときにはどのみち常に利潤はゼロだからxはなんでもよくなる。第1のケースではアウトプットの超過需要、第2のケースではインプットの超過需要が生じるから、均衡においては最後のpA=wたらざるを得ない。そのとき均衡では、(1)企業側としては生産レベルは何でもよく不決定で、数量は消費者側の事情で定まる。(2)価格は生産技術によって自動的に定まる。(3)最大化された利潤はゼロである。


これだけ読むと、ほとんど「はぁ?」であろう。しかし、これもやはり、自由参入が保証されて無数の潜在的企業が想定される状況では、そうした無数の企業のmass behaviorの記述として理にかなっている。というのも、正の利潤が存在する限り参入が起こり続け、その結果生産物価格は下落し、その極限においては利潤がゼロになるからだ。

そしてこれは、その収束の過程において個別の企業が正の利潤を上げていることとは矛盾しないし、むしろこの個別的な正の利潤こそが追加参入を招いて市場を極限へと向かわせるのである。 


続きのエントリーでは、効率市場仮説と、部分均衡分析における所得効果不在の仮定について述べる予定。


参考文献
Funk, P., 1995. Bertrand and Walras equilibria in large economies. Journal of Economic Theory 67, pp. 436–466.

*1:当然ながら、技術が収穫逓増的なときには必ずしも機能しない。