市場を開くことは良いことか?

かなり長い間更新が滞ってしまった.個人的事情もあるが,どうやら自分の興味に引きつけてしかモノを考えられなくなっているようで,そこから外れたことについて包括的にまとめる意欲が格段に落ちてしまっているようである.

今回は以前書いた記事の続編ということで更新作業のリハビリとしたい.

で,タイトルに戻るが,もちろん古典的答えはイエスである.というのも,開かれた市場に参加することで損をするような人はそもそも参加しないからだ(これを経済学では資源配分機構の「個人合理性」と呼ぶ).

だがここではそういうことを問うているのではない.前記事にあるように,「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」ということを問題にしているのだ.

これに対する"positive analysis"としての一般均衡理論の答えはノーである.貿易理論の文脈では負の交易条件効果として知られる.また,前記事にもあるように不完備資産市場の文脈では,Hart (1975)が新たに証券が売買可能になったおかげで全員が損する例を出している.しかもCass and Citanna (1998)はむしろその方が「常態」であることを示している.

ここで本題は我田引水になるが,Chambers and Hayashi (2013, CH)は,社会的選択のアプローチから,ワルラス的な競争的市場を前提とせずに,一般の社会的選択関数の性質としてこの問題を考えている.通常,資源配分の文脈では社会的選択関数は人々の選好リストから資源配分への関数であるが,CHは人々の選好リストと取引可能な剤の集合のペアから資源配分への関数を考えている(ただし,取引不可能な財については,各人がその手持ちをそのまま消費する).

CHはこの設定において,「取引可能な財の集合が拡大したときに,拡大以前と比べて誰も損をしない」という公理を考えた(公理1).また合わせて,資源配分が所与の取引可能な財の集合のもとでは常にパレート効率的であること(公理2),資源配分は各人が取引可能な財に対する配分に対する選好のみによって定まる(公理3)を課した.

公理3はある種の情報節約性だが,例えば段階的に財の市場開放を行っていく際に,まだ市場取引の視野に入っていない財に対する選好をも考慮に入れるというようなことは,あらかじめ「ゴール」が見えていないとできないことであり,「分権的」な市場開放においてそれを行うのは非現実的な重荷である.だから,公理3は規範的要件というよりも制約条件である.

CHは,一定の正則性条件を満たす選好領域においては,市場開放の「第1段階」においては必ず誰か一人が交易の利益を独り占めにし,他のすべての人はアウタルキーでの厚生レベルにとどまらざるをえないことを示した.これは,市場開放の「第2段階」においては全員が市場開放によって第1段階と比べて得をすることを排除してはいない.だが,公理1の要請に従えば,第1段階で交易の利益を独占している人でも第2段階で損させるわけにはいかないのだから,第2段階において他の人が得られる交易の利益は,この第1段階での利益独占者が許容する範囲のものに限られる.言い換えると,交易の利益は市場開放の第1段階で誰かがそれを総取りすることにより,その「おこぼれ」として第2段階で他の人に出回るものとしてしか存在しない,ということを上の3公理は含意している.


参考文献
Christopher P. Chambers, Takashi Hayashi, Gains from trade, March 2013. pdf

Hart, O. 1975, On the optimality of equilibrium when the market structure is incomplete, Journal of Economic Theory 11, No. 3, 418-443.

Cass, D. and A. Citanna 1998, Pareto Improving Financial Innovation in Incomplete Markets, Economic Theory 11, 467-494.