GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?

マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか?


外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。


GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々がエンジョイするものは消費であって、投資は将来においてそれを得るための手段に過ぎない。厚生指標としては、手段を「目的」として評価に繰り入れるのはおかしな話である。

また、GDPが厚生指標として有力ならば、もしかりに今期のGDPを上げるべく努力することと来季のGDPを上げるべく努力することとの間に相反が起こったらどうするのであろうか?

我々にとって真に重要なのは、とある特定の期間におけるパフォーマンスではなく、現在から将来にわたって描かれるライフコース全体であるはずだ。その点で、GDPの定義をそのまま見るならば、それはライフコースの各期各期での断面を捉えるものに過ぎない。


ライフコース全体の評価するならば、最適成長理論において行われるように、まずは各期各期の消費を「何らかの関数」で評価し、今度はその評価の流列を「何らかの割引因子」をもちいて割引現在価値へと集計する、というのがまっとうである。というのは、来期において将来にわたる流列の割引現在価値を最大化することは、今期において来期を含む将来にわたる流列の割引現在価値を最大化することの「サブ問題」になっているから、今期の処方と来期の処方との間に相反は生じない。こうした整合性を時間整合性あるいは動学的整合性という。


フローとしてのGDPがライフコース全体の評価として意味をもつならば、それはある「関数」と「割引率」を用いて計算された割引現在価値の代理変数になっており、その最大化においては期間間での相反が生じてはならない。またそれは、まさに投資の算入を通じてでのはずである。では、その際の「関数」と「割引率」はどんなものだろうか?


Weitzman(1976)はこれに答えを与えている。彼は、市場利子率が時間不変であるという想定のもとではGDPは、「消費流列の市場利子率による割引現在価値を最大化したときに、仮に最大化する流列を毎期同じ消費で受け取ったならば、それはどれだけになるか?」という問いへの答えに相当する、ということを示した。つまり、「GDP=消費流列の最大割引現在価値×市場利子率」が成り立つ。よって、上記の「関数」とは消費そのままにほかならず、社会的「割引率」は市場利子率に他ならない。


これには注釈が必要と思われる。
1:技術は必ずしも(資本に対するリターンについて)収穫一定ではないので、その「毎期同じ消費」というのは実際には経済が定常状態にない限りは実現可能ではない。つまりこれはあくまで仮想的なものである。
2:市場利子率はそもそも内生変数であり、これが時間不変であるのは定常状態以外には考え難い。
3:話が定常状態に限られているので、非定常状態において消費の期間間代替がどれだけ認められるべきなのかという規範的問題は捨象されている。
4:やはり話が定常状態に限られているので、非定常状態において適切な社会的割引率がなんであるべきかという問題は捨象されている。
5:話が定常状態でしか成り立たないとすれば、そこでGDPが(非確率的な意味で)上がる下がるということを考えるのにどういう意味があるのか?


ということで、この論文はGDPがある種の社会厚生関数の代理変数になっていることをもってある可能性定理を示したわけだが、僕にはこれは限りなく不可能性定理に近く読めてしまうのだ。


参考文献
Martin L. Weitzman (1976) On the Welfare Significance of National Product in a Dynamic Economy, Quarterly Journal of Economics, Vol. 90, No. 1, pp. 156-162