取引機会の拡大は人々を得させるか?

「得させるに決まってるじゃないか。それが経済学の教えじゃあないのか?」と思われるかもしれない。

確かに、市場はそこに参加する人が全員、参加しない場合と比べて得するような配分をなす。そうでなければ、交換で損するような個人は最初から市場に参加しないからだ。この条件を参加条件あるいは個人合理性という。しかし、「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」というのはまた別問題である。例えば新たに金融商品が登場するとか、とある農産物の市場が開放されるような状況を考えるとよい。

「あらゆるものとあらゆるものとが交換できる」ことを市場の完備性という。一方、必ずしもあらゆるものとあらゆるものとが交換できない市場を不完備市場という。例えば、金融市場ではさまざまな不確実性をヘッジすべく金融商品が取引されているが、当然、それで世の中のすべての不確実性がカバーできているわけではない。また、貯蓄は現在の消費を売って将来の消費を買う行為であり、借金は将来の消費を売って現在の消費を買う行為であるが、この交換が必ずしもスムーズに行かないことは、日常生活に照らせば理解できるだろう。


つまりここで問題にしているは、全くのアウタルキーではないものの不完備であるような市場がより完備になったら人々は得するか、ということである。参加条件とは違い、こちらの方は自明ではない。なぜなら、新たに取引可能な対象が加わることで、それまでそれが取引不可能であったことによって有利な取引を享受していた人が相対的に損をするかもしれないからである。

もちろんそれだけならば、「それは今まで取引機会が小さかったおかげで不当に『既得権』を享受していた人達がいただけだ」という言い方もできよう。しかし理論的には、取引機会が増えたおかげで全員が損をするようなことが起こりうる。


金融市場の場合を考えてみよう。そこでは、不確実性に応じて異なったリターンを持つ互いに異なった証券へと資金を分散させることで不確実性をヘッジできる。だから、新たな証券が取引可能になったらそれを利用してみんな得をすることができる、というのが「シカゴ的直感」というものだ。しかし、これは必ずしも正しくない。Oliver Hartは1975年の論文で、新たに証券が取引可能になると全員が損をするような例を示している。


もちろん、これは必ずしも取引機会の拡大が常に人々を不幸にすることを意味しない。全員を得させるような取引機会の拡大の仕方が存在することは示せる。例えばCass and Citanna は、どんな不完備市場においても、そこから全員を得させるような新しい証券の開発が可能であることを示している。

しかし、取引機会の拡大はどんな順序で起こっても人々にとってプラスである、というようなことは否定される。つまり、取引機会の拡大(例えば新しい金融商品の開発)が人々を得させるためには一定の順序・経路依存性を持たねばならない、ということを示唆している。


参考文献
Hart, O. 1975, On the optimality of equilibrium when the market structure is incomplete, Journal of Economic Theory 11, No. 3, 418-443.
Cass, D. and A. Citanna 1998, Pareto Improving Financial Innovation in Incomplete Markets, Economic Theory 11, 467-494.