行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム

次のような見解は、隣接社会科学においては以前から支持されていたであろうものだが、90年代中盤以降、経済学のメインストリームにおいても一定の支持を集めているものである:(1)人間は必ずしも従来の経済学の想定するような意味では「合理的」ではない;(2)しかも合理性からの乖離は、結論の定性的性質に影響を与えないような副次的要素あるいは誤差ではなく、定性的影響を持っている;(3)そうした乖離は決してランダムなものではなく、それ自体一定の規則性を持っている。

ここでまず、経済分析に関する限りでの「合理性」の範囲を確認しておくとそれは、各個人が(I)彼自身の整合的な優先順位・達成目標を持ち、(II)それを達成するために必要な、外界に対する正確な認識と情報とを持ち合わせ、(III)それらを論理整合的に処理し、自分の優先順位にとって最適な選択を導き出すことができる、というものである。*1あくまで個人レベルかつ形式的レベルでの合理性であって、社会的レベルおよび内実的倫理のレベルの話ではない。


さて、冒頭の見解はご存知のように行動経済学という記述分析のプログラムの発展を招来したわけだが、新たな問題を惹起するに至った。それは、「じゃあ、厚生分析はどうするのさ?」というものである。

社会にとって何が望ましいかは、もちろん自明ではない。一方、上の合理性の想定のもとでは、個人にとって何が望ましいかは自明の話である、つまり、「本人が正しく知っている」というわけだ。しかし、上の合理性の想定が崩れると、もはや単一の個人ひとつを取ってみても、彼にとってどの選択がより良く、何がより悪いのかは必ずしも自明ではない。

これが、いわゆるパターナリズム的介入の必要性をもたらすのか、議論のあるところだ。もちろん、「その帰結に関わらず、自由には価値がある」という人々もいるだろうし、それを否定するわけではないが、ここではあくまでも、自由はその有用性においてのみ価値が与えられるとしたら、その限界はどこにあるのかを考えることにしよう。問題は、社会でなく個人一つ取ってみても、彼にとっての有用性が何なのか定かでないことなのだ。*2

Laibson(1997)は、個人が必ずしも時間を通じて整合的な単一な自己からはなっておらず、ライフプランについての意見の異なる複数の自己(今日の自分、明日の自分、・・・・・)からなっている場合には、借金の規制がこれら複数の自己たちのすべてをより改善することがありうることを示した。言い換えれば、個人を複数の自己達からなる一つの社会と見立てた場合、借金の規制はこの社会をパレート改善する、ということである。

通常のモデルにおいては、借金というのは将来の消費でもって現在の消費を買う行為に他ならないから、その規制および強制貯蓄は商取引の妨害でしかない。しかし、個人が利害の異なる複数の自己たちからなる場合は、そうしたfrictionがcommittment deviceとして機能することがあるのだ。

だがこれはあくまでもラッキーな例に過ぎない。Bernheim and Rangel(2007,2009) は、パレート原理のこの「小社会」への応用=「すべての自己にとってxがyよりも良いならば、個人総体にとってもそうであろう」という基準を提唱しており、これは確かにまずもっともな基準ではあるが、複数の自己たち全員を改善できるケースはそうはない。ある自己にとっての目的を貫徹するためには他の自己を殺さねばらなないようなケースの方がむしろsignificantだ。このような場合にも適用可能な基準というのはあるだろうか?


Thaler and Sunstein(TS)は近年、リバータリアン・パターナリズムという立場を提唱している。これは、選択の自由を保持したままでも、選択問題の形式をほんのちょっといじってやることによって、個人を「より良い」選択へを誘導できる、というものだ。例えば、確定拠出年金への加入について、非加入をデフォルトにして加入するならばサインアップすべしというのと、加入をデフォルトにして非加入ならばサインアップすべしというのとでは、両者は「本質的には」同じ選択問題であるにもかかわらず、加入率がまるで違う(後者が高い)。そこで、加入手続きを後者にすれば、人々をより良い年金加入判断に導ける、というのだ。そして、直接に帰結を強制的に割り当てるのではなく、あくまでも選ぶのは個人当人であるから、リバータリアンだというわけだ。

また、個人が一貫してどちらの設定においても同じ選択をしている場合には、それが何であれ尊重する、という意味でもリバータリアンである。


だがこれは同時にパターナリズムであり、しかも彼らが思っている以上にパターナリスティックである。例えば、問題Aと問題A’とでは本質的に同じであるにも関わらず、個人が前者においては不健康な選択をし、後者においては健康志向な選択をしている、としよう。つまり、問題Aに接した「自己」と、問題A’に接した「自己」とがいる。

ここでTSは、問題A’に接した自己がより健康志向の選択をするという理由でA’に誘導すべき、としているのだが、これは、こうした複数ある自己のうちのどれが「本当の自己」でどれが「偽りの自己」であるか、および「どの自己」がより重きを持っているべきかについて、価値判断を行っていることに他ならない。

TSはこのあたり無邪気というべきか、健康志向の自己が「本当の自己」で不健康な自己が「偽りの自己」というのが当然、という想定を暗黙裡に立てて議論を進めている。その意味で、TSのリバータリアン・パターナリズムは、彼らが認識しているよりも概念的なレベルではパターナリズム的である。健康志向の自己がより「本当の自己」である、ということについて大方のコンセンサスが結果的に得られるにしても、だ。




参考文献
Bernheim, Douglas, Behavioral Welfare Economics, Journal of the European Economic Association, April 2009, Vol. 7, No. 2-3, Pages 267-319.

Bernheim, Douglas and Antonio Rangel, Toward Choice-Theoretic Foundations fo rBehavioral Welfare Economics, American Economic Review Papers and Proceedings, 97(2), May 2007, 464-470.

Laibson, David, Golden Eggs and Hyperbolic Discounting, Quarterly Journal of Economics, 112 (1997), 443–477.

Thaler, Richard H. and Cass Sunstein, Libertarian Paternalism is Not an Oxymoron, University of Chicago Law Review 70 (4), (2003): 1159-1202.

Thaler, Richard H. and Cass Sunstein, Libertarian Paternalism, American Economic Review 93 (2), (2003): 175-179.

Thaler, Richard and Cass R. Sunstein, Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness, New Haven, Yale University Press, 2008, 304 pp.

*1:もちろん、必ずしも3つにきれいに分離できるわけではないが。

*2:もっとも、一見「パターナリズム」的とみなされているものの大半は、より高次の「自己」が自分の中の下位レベルでの合理性の欠如に対処するために、情報の取得とその処理および選択を、明確にであれ暗黙にであれ第3者に委ねたところのものである。つまりアウトソーシングである。とある問題について自分が正確な情報を持っていない、および処理能力がないと自覚している場合に、情報の取得とその処理を代行するエージェントを雇うのはよくある話だ。そして、利益相反が起こらないと契約上想定される範囲内でエージェントに身を任せることは、パターナリズムに身を任せていることとは違う。これは大騒ぎする話ではない。