経済学における極限論法 (2)

以前のエントリーより続く

効率市場仮説
証券市場においてシステマティックに(つまり、「たまたま」でなく)儲ける方法はあるか?というのは、誰しもが抱く考えであろう。

いわゆる効率市場仮説はこれが不可能であることを主張する。というのも、良く整備された市場においては、将来の証券価格に非確率的に予測可能な要素があるならば、それは即座に現在の証券価格に残さず織り込まれるので、将来の証券価格には現時点で予測不可能な要素しか残されていないからである(その意味で資源配分のパレート的効率性とは別の意味で情報効率的である)。

ここでは、この仮説が現実に成り立っているか否かの議論はしない。それよりも、この仮説が抱える「パラドクス」について議論しようと思う。そのパラドクスというのは、「もし価格が全てを物語っているならば、必死こいて企業情報を収集して分析する必要などないではないか?」というものである。つまり、市場が効率的ならば、それを所与とする限り人々は全く情報収集をしなくなり、よって市場は効率的たりえなくなる、というパラドクスである。*1

ここでは各トレーダーは、価格が情報を織り込むということは、自分の取引活動がたとえ少量であっても市場価格の変化に反映される、ということを知っていながら、市場価格を所与と受け取っている、つまり自分の取引活動が市場価格に影響しないと想定している。こうした市場における均衡を合理的期待均衡というが(マクロにおける合理的期待形成均衡とは異なる用語)、そういうわけでHellwig (1980)は合理的期待均衡におけるこのトレーダーの想定を「分裂症的」と形容している。

このパラドクスを解決するには、explicitな価格決定プロセス(=見えざる手ではなく見える手)に真っ向から取り込む必要がある。これに関する論文は、具体的なオークション設定をどう置くかによっていくつかあり、Wilson (1977)に始まりPesendorfer and Swinkels (1997)、 最近ではReny and Perry (2006)がある。いずれにせよ基本的アイデアは、トレーダーが無数に多くなるにつれて、オークションゲームの均衡の挙動が合理的期待均衡におけるそれに収束するというものである。

つまり、大きい市場においては、個々のトレーダーは自分の情報収集と入札行動が市場に与える影響はほぼゼロだと想定しながらも、それがmass behaviorとして市場価格に織り込まれていることも想定し、それを所与として行動する、ということが同時に矛盾なく成立するのである。結果、市場価格は人々が個別に得た情報を遺漏なく集計する。そしてこのことは、個々のトレーダーにとって情報が確率的なレベルで役に立ち、利益を得ていることとも矛盾しないのである。


次回は、部分均衡分析における所得効果不在の仮定について述べる予定。


参考文献
Hellwig, M. R. (1980): “On the Aggregation of Information in Competitive Markets,”Journal of Economic Theory, 22, 477-498.
Wilson R. (1977): “A Bidding Model of Perfect Competition,”The Review of Economic Studies, Vol. 44, 511-518.
Pesendorfer W. and J. M. Swinkels (1997): “The Loser’s Curse and Information Aggregation in Common Value Auctions,”Econometrica, 65, 1247-1281.
Reny, P. and M. Perry (2006): Toward a Strategic Foundation for Rational Expectations Equilibrium, Econometrica, 74(5), 1231-1269.

*1:このパラドクスはおなじみ金融日記でも秀逸な筆致で紹介されている。