経済学における極限論法 (1)

経済学には、その言明だけを見ると珍妙な現実離れとしか思えないような、しかも時には矛盾に見えるような仮定がしばしばある。

経済学者の多くはこうした仮定の使用を、いわゆる"as if"論法=「記述的理論の価値はその仮定の現実的妥当性にあるのではなく、それが統一的に説明できる事柄の豊かさによって決まる」によって正当化するわけだが、それでは満足できない人は多いだろう。また、"as if"で正当化できるのは記述分析のみで、それでは厚生分析もできなければ政策的含意も出てこない。またなにより"as if"では、「なぜそうでなければならないか」という必然性が説明できない。


経済理論は仮定の必然性について議論するとき、しばしば極限論法を取る。これは、仮定を所与として受け取るのではなく、背後に何らかのプロセス(動的な行為のプロセスにせよ、静的な推論・思考実験プロセスにせよ)があると考え、仮定の言明をそうしたプロセスの極限・収束点として捉えなおす考え方である。

これにより、(1)一見現実離れした仮定であっても、実はそれは現実的にappealingなプロセスが必然的に向かう行き先であることが示せる(その意味で、単なる近似ではない);(2)収束がどれだけ早いのか、あるいは収束しないとしたら何が原因なのかについてinsghtを与えてくれる;(3)極限における性質と有限における性質との違いが量化できるので、極限を「そのまま」仮定することの是非が議論できる、などの利点がある。

ただしトリッキーなのは、有限において極限での性質が成り立っていないことこそが事態を極限へと向かわせる駆動力となっていることがしばしばあることだ。

それを踏まえて、経済理論における極限論法をいくつか紹介しよう。


完全競争
経済学の本を開いて「『完全』競争」という言葉を初めて目にしたとき、「いったいどんな怖ろしい世界なんだそれは?」という印象を持った読者は多いに違いない。以前にも述べたように、この語感ゆえに経済学術語としての競争の理解はかなり歪められているわけだが、ここではそれが本題ではないので脇に置いて、術語としての完全競争に話を絞る。

市場が完全競争的(あるいは端的に競争的)であるとは、すべての経済主体が価格受容的である、つまり、個々の経済主体は価格を自分一人の力では動かすことのできない所与のものとして受け容れていることを指す。

これを文字通りに取る限り、何かおかしいことはすぐに分かるだろう。「誰もが価格に対して受動的にふるまっているのなら、いったい誰が価格を決めているのか?」あるいは「現実においては、たいてい売り手が価格を設定しているか、そうでなければ交渉で決まっているではないか?」と。

しかし、ある経済主体が価格設定のアクションを取っていることは、その主体が価格決定に力を及ぼしていることを必ずしも意味しない。売り手が価格設定を行っているにしても、利潤を追求する以上、当然買い手の動向・競合の売り手の動向を考慮に入れて価格設定をせざるをえない。この圧力が極限まで至ると、各売り手は自分で価格を設定しているにもかかわらず、結局のところ一定の「相場」を所与として受け容れざるをえなくなる。

では、どのような条件だと極限に至るだろうか?古典的なベルトラン的価格競争(限界費用が一定で、各企業で共通)においては、企業が二つ以上あれば、価格が限界費用まで押し下げられて完全競争に至る、というのが教科書的結果である。しかし一般には限界費用は一定でもなければ、企業間で同じでもない。

Funk (1995)は、そうした場合でも収穫逓減的技術を持つ無数の「潜在的」企業が存在して、かつ自由参入が保証されている場合には、やはり各企業は自分で価格を設定しているにも関わらず、その価格は他の企業が設定している価格と等しくなり、またその生産量における限界費用に等しくなることを示した。というのも、収穫逓減技術=「小さく操業するときは効率的で、大きく操業するにつれ非効率的」においては、既存企業が完全競争レベルよりも高い価格をつけている場合には、小さいながらも低価格で参入して利潤をかっさらう企業が多数現れてくるからである。*1


「自分で決めていながら、決めているのは自分ではない」という事態は一見矛盾に見えるが、そうした自由参入の極限として捉えることができる。


代表的企業とゼロ利潤条件
一般均衡モデルの多くではしばしば、収穫一定な技術を持ちなおかつ価格受容的な代表的企業でもって生産側を記述する。これまたそれだけ考えると実に珍妙な話ではある。

1インプット1アウトプットのケースで簡単におさらいするとし、インプットをxとしよう。このとき収穫一定技術では、アウトプットは線形関数Axによって与えられる。すると、アウトプット価格pとインプットの価格wを所与としたときに、代表的企業の利潤は pAx-wx=(pA-w)xとなる。ということは、もし[tex:pAw]のときは利潤最大化はx=0を導き何も生産活動が行われず、[tex:paw]のときはxは無限大に発散し、pA=wのときにはどのみち常に利潤はゼロだからxはなんでもよくなる。第1のケースではアウトプットの超過需要、第2のケースではインプットの超過需要が生じるから、均衡においては最後のpA=wたらざるを得ない。そのとき均衡では、(1)企業側としては生産レベルは何でもよく不決定で、数量は消費者側の事情で定まる。(2)価格は生産技術によって自動的に定まる。(3)最大化された利潤はゼロである。


これだけ読むと、ほとんど「はぁ?」であろう。しかし、これもやはり、自由参入が保証されて無数の潜在的企業が想定される状況では、そうした無数の企業のmass behaviorの記述として理にかなっている。というのも、正の利潤が存在する限り参入が起こり続け、その結果生産物価格は下落し、その極限においては利潤がゼロになるからだ。

そしてこれは、その収束の過程において個別の企業が正の利潤を上げていることとは矛盾しないし、むしろこの個別的な正の利潤こそが追加参入を招いて市場を極限へと向かわせるのである。 


続きのエントリーでは、効率市場仮説と、部分均衡分析における所得効果不在の仮定について述べる予定。


参考文献
Funk, P., 1995. Bertrand and Walras equilibria in large economies. Journal of Economic Theory 67, pp. 436–466.

*1:当然ながら、技術が収穫逓増的なときには必ずしも機能しない。

行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム 2

前回、Thaler-Sunsteinによるリバータリアン・パターナリズムは、彼ら自身が思っているよりもパターナリスティックなものだということを述べたが、こうしたパターナリズムは、個人の厚生基準を完備な順序で与えようとする限り、不可避のものである。*1

簡単な例で話を進めよう。X,Y,Zの3択ではXを選んでいるが、X,Yの2択ではYを選んでいるような個人を考えよう。この人にとって、XとYではどちらが良いのだろうか?「より大きな選択機会から選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、Xが良い、ということになるし、「直接比較で選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、Yが良い、ということになる。どちらを取るしてもこれは、どちらの問題に接した「自分」がより重要なのかについてのパターナリスティックな判断たらざるを得ない(「同等に」好ましいと結論付けるのも、やはりパターナリスティックな判断である)。


では、こうした判断がシステマティックになされるとしたら、それはどういう形式をしているだろうか?また、それはどこまで・どのような意味で当人の意思を尊重しうるだろうか?ということをここでは考えてみたい。

ここからは我田引水になるが、Chambers and Hayashi (2008,以下CH)による。同じ題材についての別のアプローチには、Rubinstein and Salant (2009)などがある。

CHは、選択データをインプットとし、選択肢上への順序をアウトプットとする関数を考えた。これを個人厚生関数と呼ぼう。インプットたる選択データは、合理的整合的な選択によるとも限らない、全く任意のものである。この関数は、与えられたデータについて厚生判断を与える「エコノミスト」をモデル化したものである。アウトプットたる順序は、prescriptiveなものである。つまり、「あなたの選択データを見る限り、背後に整合的な価値基準が必ずしも見出せないんだけれども、厚生判断のために敢えてそれを考えるならば、こういうものになりますよ」というエコノミストの判断である。もちろん、実際に選択データが整合的な選好順序に基づいているならば、エコノミストの与える順序がそれに一致していてしかるべきだ、というのは理解できるだろう。

CHは「システマティック」な判断の条件として、データの取り扱いの整合性を次のような公理=「我々のエコノミストが、仮にデータAが与えられた上でXがYより良いと判断し、また別のデータBが与えられた上でXがYより良いと判断したとする。このとき我々のエコノミストは、両データをあわせたA+Bの下でもやはりXがYが良いと判断する」として考えた。

そしてCHは、このデータ取り扱いの整合性を満たすエコノミストの判断はスコアリングルールに従うことを示した。つまり、この状況でXが選ばれたらXに何点与え、あの状況でYが選ばれたら何点与え、・・・・・という形のルールである。スコアリングルールは、事前にこうした「点」=ウェイトを決めておかねばならない。その意味において、エコノミストの判断は事前ウェイト付けを行うパターナリスティックなものたらざるをえない。先ほどの例に戻ると、3択から選ばれたら何点、2択から選ばれたら何点、という具合である。「より大きな選択機会から選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、3択で選ばれたときに与えられる点を高く設定するし、「直接比較で選ばれたことの方が重要だ」という立場に立つならば、2択で選ばれたときに与えられる点を高く設定することになる。

そのうえでCHは、「各選択肢は同等に扱われる」=「エコノミストの判断は特定の選択肢に肩入れしない」という中立性の公理を考えた。この追加的公理の下では、上記のようなウェイトは、個人の選択が非整合的なとき、つまり複数の対立する自己が存在するときに、それらの間のバランスをとることにおいてのみ意味を持つことが示される。つまり、個人が単一で整合的な選好を持つ場合には、ウェイトがどんなものであろうと、当人の選好がそのままエコノミストの判断に反映される。したがって、ここでのパターナリズムは、個人が複数の対立した自己を持つ場合にのみ意味を持ち、個人が一つの整合的な自己を持つ場合には、なんら為すところがない。その意味で、リバータリアニズムとパターナリズムのintersectionは非空ではあるが限定的に解されるべきだ、というのがCHの結論である。


参考文献
Chambers, C.P. and T. Hayashi (2008), Choice and Individual Welfare, working paper, http://ssrn.com/abstract=1494196
Rubinstein, A. and Y. Salant (2009) Eliciting Welfare Preferences from Behavioral Datasets, working paper, http://arielrubinstein.tau.ac.il/papers/Rubinstein_Salant_welfare.pdf

*1:前回も述べたように、自由の価値は手続き的合理性にある、あるいは自由の価値は帰結の良し悪しによらないものである、という考え方もあるが、ここではあくまでも帰結の「良し悪し」を考えようとしている。

行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム

次のような見解は、隣接社会科学においては以前から支持されていたであろうものだが、90年代中盤以降、経済学のメインストリームにおいても一定の支持を集めているものである:(1)人間は必ずしも従来の経済学の想定するような意味では「合理的」ではない;(2)しかも合理性からの乖離は、結論の定性的性質に影響を与えないような副次的要素あるいは誤差ではなく、定性的影響を持っている;(3)そうした乖離は決してランダムなものではなく、それ自体一定の規則性を持っている。

ここでまず、経済分析に関する限りでの「合理性」の範囲を確認しておくとそれは、各個人が(I)彼自身の整合的な優先順位・達成目標を持ち、(II)それを達成するために必要な、外界に対する正確な認識と情報とを持ち合わせ、(III)それらを論理整合的に処理し、自分の優先順位にとって最適な選択を導き出すことができる、というものである。*1あくまで個人レベルかつ形式的レベルでの合理性であって、社会的レベルおよび内実的倫理のレベルの話ではない。


さて、冒頭の見解はご存知のように行動経済学という記述分析のプログラムの発展を招来したわけだが、新たな問題を惹起するに至った。それは、「じゃあ、厚生分析はどうするのさ?」というものである。

社会にとって何が望ましいかは、もちろん自明ではない。一方、上の合理性の想定のもとでは、個人にとって何が望ましいかは自明の話である、つまり、「本人が正しく知っている」というわけだ。しかし、上の合理性の想定が崩れると、もはや単一の個人ひとつを取ってみても、彼にとってどの選択がより良く、何がより悪いのかは必ずしも自明ではない。

これが、いわゆるパターナリズム的介入の必要性をもたらすのか、議論のあるところだ。もちろん、「その帰結に関わらず、自由には価値がある」という人々もいるだろうし、それを否定するわけではないが、ここではあくまでも、自由はその有用性においてのみ価値が与えられるとしたら、その限界はどこにあるのかを考えることにしよう。問題は、社会でなく個人一つ取ってみても、彼にとっての有用性が何なのか定かでないことなのだ。*2

Laibson(1997)は、個人が必ずしも時間を通じて整合的な単一な自己からはなっておらず、ライフプランについての意見の異なる複数の自己(今日の自分、明日の自分、・・・・・)からなっている場合には、借金の規制がこれら複数の自己たちのすべてをより改善することがありうることを示した。言い換えれば、個人を複数の自己達からなる一つの社会と見立てた場合、借金の規制はこの社会をパレート改善する、ということである。

通常のモデルにおいては、借金というのは将来の消費でもって現在の消費を買う行為に他ならないから、その規制および強制貯蓄は商取引の妨害でしかない。しかし、個人が利害の異なる複数の自己たちからなる場合は、そうしたfrictionがcommittment deviceとして機能することがあるのだ。

だがこれはあくまでもラッキーな例に過ぎない。Bernheim and Rangel(2007,2009) は、パレート原理のこの「小社会」への応用=「すべての自己にとってxがyよりも良いならば、個人総体にとってもそうであろう」という基準を提唱しており、これは確かにまずもっともな基準ではあるが、複数の自己たち全員を改善できるケースはそうはない。ある自己にとっての目的を貫徹するためには他の自己を殺さねばらなないようなケースの方がむしろsignificantだ。このような場合にも適用可能な基準というのはあるだろうか?


Thaler and Sunstein(TS)は近年、リバータリアン・パターナリズムという立場を提唱している。これは、選択の自由を保持したままでも、選択問題の形式をほんのちょっといじってやることによって、個人を「より良い」選択へを誘導できる、というものだ。例えば、確定拠出年金への加入について、非加入をデフォルトにして加入するならばサインアップすべしというのと、加入をデフォルトにして非加入ならばサインアップすべしというのとでは、両者は「本質的には」同じ選択問題であるにもかかわらず、加入率がまるで違う(後者が高い)。そこで、加入手続きを後者にすれば、人々をより良い年金加入判断に導ける、というのだ。そして、直接に帰結を強制的に割り当てるのではなく、あくまでも選ぶのは個人当人であるから、リバータリアンだというわけだ。

また、個人が一貫してどちらの設定においても同じ選択をしている場合には、それが何であれ尊重する、という意味でもリバータリアンである。


だがこれは同時にパターナリズムであり、しかも彼らが思っている以上にパターナリスティックである。例えば、問題Aと問題A’とでは本質的に同じであるにも関わらず、個人が前者においては不健康な選択をし、後者においては健康志向な選択をしている、としよう。つまり、問題Aに接した「自己」と、問題A’に接した「自己」とがいる。

ここでTSは、問題A’に接した自己がより健康志向の選択をするという理由でA’に誘導すべき、としているのだが、これは、こうした複数ある自己のうちのどれが「本当の自己」でどれが「偽りの自己」であるか、および「どの自己」がより重きを持っているべきかについて、価値判断を行っていることに他ならない。

TSはこのあたり無邪気というべきか、健康志向の自己が「本当の自己」で不健康な自己が「偽りの自己」というのが当然、という想定を暗黙裡に立てて議論を進めている。その意味で、TSのリバータリアン・パターナリズムは、彼らが認識しているよりも概念的なレベルではパターナリズム的である。健康志向の自己がより「本当の自己」である、ということについて大方のコンセンサスが結果的に得られるにしても、だ。




参考文献
Bernheim, Douglas, Behavioral Welfare Economics, Journal of the European Economic Association, April 2009, Vol. 7, No. 2-3, Pages 267-319.

Bernheim, Douglas and Antonio Rangel, Toward Choice-Theoretic Foundations fo rBehavioral Welfare Economics, American Economic Review Papers and Proceedings, 97(2), May 2007, 464-470.

Laibson, David, Golden Eggs and Hyperbolic Discounting, Quarterly Journal of Economics, 112 (1997), 443–477.

Thaler, Richard H. and Cass Sunstein, Libertarian Paternalism is Not an Oxymoron, University of Chicago Law Review 70 (4), (2003): 1159-1202.

Thaler, Richard H. and Cass Sunstein, Libertarian Paternalism, American Economic Review 93 (2), (2003): 175-179.

Thaler, Richard and Cass R. Sunstein, Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness, New Haven, Yale University Press, 2008, 304 pp.

*1:もちろん、必ずしも3つにきれいに分離できるわけではないが。

*2:もっとも、一見「パターナリズム」的とみなされているものの大半は、より高次の「自己」が自分の中の下位レベルでの合理性の欠如に対処するために、情報の取得とその処理および選択を、明確にであれ暗黙にであれ第3者に委ねたところのものである。つまりアウトソーシングである。とある問題について自分が正確な情報を持っていない、および処理能力がないと自覚している場合に、情報の取得とその処理を代行するエージェントを雇うのはよくある話だ。そして、利益相反が起こらないと契約上想定される範囲内でエージェントに身を任せることは、パターナリズムに身を任せていることとは違う。これは大騒ぎする話ではない。

GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?

マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか?


外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。


GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々がエンジョイするものは消費であって、投資は将来においてそれを得るための手段に過ぎない。厚生指標としては、手段を「目的」として評価に繰り入れるのはおかしな話である。

また、GDPが厚生指標として有力ならば、もしかりに今期のGDPを上げるべく努力することと来季のGDPを上げるべく努力することとの間に相反が起こったらどうするのであろうか?

我々にとって真に重要なのは、とある特定の期間におけるパフォーマンスではなく、現在から将来にわたって描かれるライフコース全体であるはずだ。その点で、GDPの定義をそのまま見るならば、それはライフコースの各期各期での断面を捉えるものに過ぎない。


ライフコース全体の評価するならば、最適成長理論において行われるように、まずは各期各期の消費を「何らかの関数」で評価し、今度はその評価の流列を「何らかの割引因子」をもちいて割引現在価値へと集計する、というのがまっとうである。というのは、来期において将来にわたる流列の割引現在価値を最大化することは、今期において来期を含む将来にわたる流列の割引現在価値を最大化することの「サブ問題」になっているから、今期の処方と来期の処方との間に相反は生じない。こうした整合性を時間整合性あるいは動学的整合性という。


フローとしてのGDPがライフコース全体の評価として意味をもつならば、それはある「関数」と「割引率」を用いて計算された割引現在価値の代理変数になっており、その最大化においては期間間での相反が生じてはならない。またそれは、まさに投資の算入を通じてでのはずである。では、その際の「関数」と「割引率」はどんなものだろうか?


Weitzman(1976)はこれに答えを与えている。彼は、市場利子率が時間不変であるという想定のもとではGDPは、「消費流列の市場利子率による割引現在価値を最大化したときに、仮に最大化する流列を毎期同じ消費で受け取ったならば、それはどれだけになるか?」という問いへの答えに相当する、ということを示した。つまり、「GDP=消費流列の最大割引現在価値×市場利子率」が成り立つ。よって、上記の「関数」とは消費そのままにほかならず、社会的「割引率」は市場利子率に他ならない。


これには注釈が必要と思われる。
1:技術は必ずしも(資本に対するリターンについて)収穫一定ではないので、その「毎期同じ消費」というのは実際には経済が定常状態にない限りは実現可能ではない。つまりこれはあくまで仮想的なものである。
2:市場利子率はそもそも内生変数であり、これが時間不変であるのは定常状態以外には考え難い。
3:話が定常状態に限られているので、非定常状態において消費の期間間代替がどれだけ認められるべきなのかという規範的問題は捨象されている。
4:やはり話が定常状態に限られているので、非定常状態において適切な社会的割引率がなんであるべきかという問題は捨象されている。
5:話が定常状態でしか成り立たないとすれば、そこでGDPが(非確率的な意味で)上がる下がるということを考えるのにどういう意味があるのか?


ということで、この論文はGDPがある種の社会厚生関数の代理変数になっていることをもってある可能性定理を示したわけだが、僕にはこれは限りなく不可能性定理に近く読めてしまうのだ。


参考文献
Martin L. Weitzman (1976) On the Welfare Significance of National Product in a Dynamic Economy, Quarterly Journal of Economics, Vol. 90, No. 1, pp. 156-162

取引機会の拡大は人々を得させるか?

「得させるに決まってるじゃないか。それが経済学の教えじゃあないのか?」と思われるかもしれない。

確かに、市場はそこに参加する人が全員、参加しない場合と比べて得するような配分をなす。そうでなければ、交換で損するような個人は最初から市場に参加しないからだ。この条件を参加条件あるいは個人合理性という。しかし、「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」というのはまた別問題である。例えば新たに金融商品が登場するとか、とある農産物の市場が開放されるような状況を考えるとよい。

「あらゆるものとあらゆるものとが交換できる」ことを市場の完備性という。一方、必ずしもあらゆるものとあらゆるものとが交換できない市場を不完備市場という。例えば、金融市場ではさまざまな不確実性をヘッジすべく金融商品が取引されているが、当然、それで世の中のすべての不確実性がカバーできているわけではない。また、貯蓄は現在の消費を売って将来の消費を買う行為であり、借金は将来の消費を売って現在の消費を買う行為であるが、この交換が必ずしもスムーズに行かないことは、日常生活に照らせば理解できるだろう。


つまりここで問題にしているは、全くのアウタルキーではないものの不完備であるような市場がより完備になったら人々は得するか、ということである。参加条件とは違い、こちらの方は自明ではない。なぜなら、新たに取引可能な対象が加わることで、それまでそれが取引不可能であったことによって有利な取引を享受していた人が相対的に損をするかもしれないからである。

もちろんそれだけならば、「それは今まで取引機会が小さかったおかげで不当に『既得権』を享受していた人達がいただけだ」という言い方もできよう。しかし理論的には、取引機会が増えたおかげで全員が損をするようなことが起こりうる。


金融市場の場合を考えてみよう。そこでは、不確実性に応じて異なったリターンを持つ互いに異なった証券へと資金を分散させることで不確実性をヘッジできる。だから、新たな証券が取引可能になったらそれを利用してみんな得をすることができる、というのが「シカゴ的直感」というものだ。しかし、これは必ずしも正しくない。Oliver Hartは1975年の論文で、新たに証券が取引可能になると全員が損をするような例を示している。


もちろん、これは必ずしも取引機会の拡大が常に人々を不幸にすることを意味しない。全員を得させるような取引機会の拡大の仕方が存在することは示せる。例えばCass and Citanna は、どんな不完備市場においても、そこから全員を得させるような新しい証券の開発が可能であることを示している。

しかし、取引機会の拡大はどんな順序で起こっても人々にとってプラスである、というようなことは否定される。つまり、取引機会の拡大(例えば新しい金融商品の開発)が人々を得させるためには一定の順序・経路依存性を持たねばならない、ということを示唆している。


参考文献
Hart, O. 1975, On the optimality of equilibrium when the market structure is incomplete, Journal of Economic Theory 11, No. 3, 418-443.
Cass, D. and A. Citanna 1998, Pareto Improving Financial Innovation in Incomplete Markets, Economic Theory 11, 467-494.

市場は非合理的主体を淘汰するか?

経済学はなぜ合理的な主体を想定するのか?という問いについて、Friedmanによる有名な答えがある。それは、「非合理的な主体は間違った投資選択をするので長期的には損を被り、市場から淘汰される。したがって、非合理的な主体は長期的な経済の挙動に影響を及ぼさないと考えられ、合理的な主体を想定しても分析上失うものはない」というものである。これをFreedman仮説と呼ぶことにしよう。*1


これは決して自明ではないし、なおかつ解釈に注意を要する命題である。というのは、長期的将来において淘汰を勝ち抜き市場をdominateすることと、何がしかの目的に照らして合理的に振舞うこととは全く別物だからである。

例えば、割引効用選好をもつ人々からなる経済では、最も割引率の低い=最もpatientで将来に重きを置く個人以外は、長期的な将来においては所得がゼロに収束することが知られている(Becker (1980))。というのは、最もpatientな個人は最も貯蓄率が高く、そうでない人との富の違いは指数的に開いていくからである。では、less patientなのは非合理的かというと、違う。将来にどれだけ重きを置くかは時間に対する好みの問題であり、合理性の問題ではない。

また例えば、証券市場の理論では、リターンの対数の割引現在価値の期待値を最大化すべく行動すれば、「いつかは」市場にある資金をすべて我が物にできる、ということが数学的結果として知られている(例えばBlume and Easley (1992)参照。ただし前段の結果を踏まえ、貯蓄率は全員同じとしている)。もちろん、「いつかは」というのは極限論法なので、100年先かもしれないし1万年先かもしれない。では、リターンの対数の期待値を取るのが合理的でそうしないのは非合理的かと言うと、違う。対数を取るのかあるいは例えば多項式を取るのかというのはリスクに対する好みの問題であり、合理性の問題ではない。


では、時間選好もリスク選好も同じだとして、確率論的に正しい予想を持つ人とそうでない人とではどうだろうか?Sandroni (2000)は、完備市場=すべての不確実性をヘッジできるように証券が揃った市場においては、正しい予想を持つ人が生き残り、間違った予想を持つ人は淘汰されることを示している。この意味においては、冒頭の言明は正しい。

しかしこれも、不完備市場においては成り立たないことが、他ならぬSandroniの結果を使って示すことができる(Blume and Easley (2006)参照)。例えば、各期において状態がs_{1},s_{2},s_{3}の3つあるとしよう。一方、証券はXYの2種類しかなく、Xのリターンは状態s_{1}において X_{1}, 状態s_{2}, s_{3}において X_{23}, またYのリターンは状態s_{1}において Y_{1}, 状態s_{2}, s_{3}において Y_{23}とする。つまり、この証券構造は状態s_{2}と状態s_{3}とを区別できず、したがってこれらの間で所得を移転することが出来ず、不完備である。

さて、本当の確率が毎期一定であるとし(つまり確率論用語で言えばIID)、これを p_{1},p_{2},p_{3}で表記する。2人の個人ABを考え、簡単のためにABおのおのの予想も毎期一定であるとし、これらを p_{A1},p_{A2},p_{A3}および p_{B1},p_{B2},p_{B3}で表記する。

ここでAについてp_{A1}=p_{1}, p_{A2}+p_{A3}=p_{2}+p_{3}が成り立つが、p_{A2}およびp_{A3}はそれぞれp_{2}およびp_{3}から著しく離れているとしよう。つまり、Aは \{s_{1}\} \{s_{2},s_{3}\}の区別に関しては正しい確率的予想を持っているが、状態s_{2}s_{3}の間での確率的内訳については全く間違っている。一方、Bの予想は本当の確率に極めて近いが、 p_{B1} p_{1}からほんの少しずれている、よって p_{B2}+p_{B3} p_{2}+p_{3}からほんの少しずれている、としよう。

簡単な数値例で言うと、例えば p_{1}=\frac{1}{3},p_{2}=\frac{1}{3},p_{3}=\frac{1}{3}で、 p_{A1}=\frac{1}{3},p_{A2}=\frac{2}{3},p_{A3}=0,  p_{B1}=\frac{1}{3}+0.0001,p_{B2}=\frac{1}{3}-0.00005, p_{B3}=\frac{1}{3}-0.00005である。

このとき、あたかも状態s_{2}s_{3}は同一のものであると考えれば、この市場は完備だとみなせ、この「みなし完備」市場においては、Aは全く正しい予想を持っており、Bの予想は仮に正確に近くてもそれに劣るのである。よってSandroniの結果が応用でき、Aが生き残り、Bの所得はゼロに収束して淘汰される。

つまり、市場はそれにrelevantな範囲の予想の正しさしか問題にしない、ということだ。


これらのことは、市場で生き残りやすい「タイプ」と合理性とは区別すべきであること、何が生き残りやすい「タイプ」かはその市場において何がrelevantでirrelevantであるかに依存することを示唆していると言えよう。



参考文献

  1. Becker, R. (1980) On the Long-Run Steady State in a Simple Dynamic Model of Equilibrium with Heterogeneous Households, Quarterly Journal of Economics, Vol. 95, No. 2, 375-82.
  2. Blume, L. and D. Easley (1992) Evolution and market behavior, Journal of Economic Theory, Vol. 58, No. 1, 9-40.
  3. Blume, L. and D. Easley (2006) If You're so Smart, why Aren't You Rich? Belief Selection in Complete and Incomplete Markets, Econometrica, Vol. 74, No. 4, 929-966.
  4. Sandroni, A. (2000) Do Markets Favor Agents Able to Make Accurate Predicitions?, Econometrica, Vol. 68, No. 6, 1303-1342.

*1:なお、この議論自体はAlchianにさかのぼるので、Alchian-Freedman仮説とも言えそうだが、ざっと検索すると、これはFriedmanによるAlchianの議論の曲解から始まったとする学説史論文もあるようなので(これ)、ここでは単にFriedman仮説とする。

効率性と厚生比較 (4)

費用便益分析というのがある。これは、ある「決定」の帰結を分析する際に、各人の選好が余剰=「決定からの便益+所得の増減」で表現されると考える。ここで決定をxで表記し、主体i(ただしi=1,\cdots,n)の所得の増減をt_{i}で表記する。例えばxは公共財の量であったり、あるプロジェクトを行う行わないであったり(行う=1、行わない=0)、あるいは単にとある私的財の配分かもしれない。ここでもしiから所得を徴収するならばt_{i}はマイナスで、逆に所得移転を与えるならばt_{i}はプラスである。このとき、個人iにとってのxからの便益をv_{i}(x)と表す。これは、個人iは決定xをなさしめるためにv_{i}(x)単位の所得を犠牲にする用意がある、ということである。この2つをあわせると、個人iにとってのネットの便益=余剰は v_{i}(x)+t_{i}となる。

まず、なんで人の選好がそんなに単純に表現されうるのか、という問題があってそれはそれで問題なのだが、話の本筋でないので、附論に回す。

さて一方、決定xを為すために必要な費用をC(x)で表す。このとき、トータルの社会的選択は、決定xとそれに付随する所得移転の組み合わせt_{1},\cdots,t_{n}からなり、まとめて(x,t_{1},\cdots,t_{n})と表記する。なお、所得移転を伴わない「決定」と区別するために、逐一小うるさく「トータルの社会的選択」と書く。これが実行可能であるためには、所得増減の総和が費用の支払いに一致せねばならない。つまり、 \sum_{i=1}^{n}t_{i}=-C(x)でなければならぬ。すると、余剰の総和は \sum_{i=1}^{n}\left(v_{i}(x)+t_{i}\right)=\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)+\sum_{i=1}^{n}t_{i}=\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)となり、便益の総和マイナス費用に等しくなる。これを社会的余剰という。


このとき、トータルの社会的選択(x,t_{1},\cdots,t_{n})がパレート効率的であることの必要十分条件は、xが社会的余剰\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を最大にすることである。なぜかというと、もしあるyがより大きな余剰すなわち\sum_{i=1}^{n}v_{i}(y)-C(y)>\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を与えるならば、 \sum_{i=1}^{n}s_{i}=-C(y)となるようなs_{1},\cdots,s_{n}を適当に選んでやることによってすべてのiについてv_{i}(y)+s_{i}>v_{i}(x)+t_{i}が成り立ち、(x,t_{1},\cdots,t_{n})に対するパレート改善をなしてしまうからである。


ここに、「効率性=余剰の最大化」という見慣れた図式が現れる。これに従えば、効率性は余剰を最大化するxを決定しうる。

よくこれを「効率性=社会的厚生の最大化」として言及するものがある。これは明確に誤りである。社会的余剰と社会的厚生は違うのである。何故か?仮に社会的厚生なるものがうまく定義されたとしてそれが最大化されているならば、それはトータルの社会的選択を決定するものでなければならぬが、効率性はトータルの社会的選択を決定しないのである。

どういうことだろうか?もう一度、最大化されるべき\sum_{i=1}^{n}v_{i}(x)-C(x)を見て欲しい。ここには所得移転のリストt_{1},\cdots,t_{n}が現れていない。要はt_{1},\cdots,t_{n} \sum_{i=1}^{n}t_{i}=-C(x)を満たすものならなんでも良いのである。つまり、この設定で効率性は余剰の最大化と同値であるが、最大化された余剰がどう配分されるかについて何も言っていないのである


さしあたりこのエントリーはここで止めよう。「まずはパイを増やすのが大事だ」というのはたいてい、効率性と公平性の問題とを峻別できない人に対して侮蔑的に用いられるフレーズだが、これを発する時には、自分は効率性のみを論拠にしている時には本当にパイの配分についてオープンな姿勢を貫いているのか、について自問してみるべきであろう。



附論

とある決定とそれに伴う所得移転について、選好が「決定による便益+所得の増減」の形で表現できるのはどういうときだろうか?本来、「その決定のために犠牲にする用意のある所得」の値は、その人がもともと所得をどれぐらい持っているかに依存しているものである。しかし、費用便益分析に登場する便益はあたかも当人の所得に依存していないがごとく与えられている。つまりここで陰伏的に仮定されているのは、その「決定」が経済全体に比して十分小さい、ということである。小さな買い物、例えば100円のジュースを買うに際し、我々はそれが「値段に比して」割高か割安かは考えたりするが、その100円の出費が他の消費に与える影響はまあおおむねないものとして考えていると言えよう。つまり、「小さな買い物」においては、便益を計算するのに所得の絶対額を考慮にいれる必要がなく、便益が所得の相対的減少に見あうか否かだけが問題となる。*1

これは、「大きな買い物」には当てはまらない。「大きな買い物」の場合は当然、それのために所得をどれだけ犠牲にできるかは所得の絶対額に依存する。こういう状況で上のような分析をあてはめようとするとエラーが大きくなる。

*1:経済学用語で言うと、所得効果がない、という。